ウズベキスタン (2)

タシケント〜サマルカンド〜ブハラ


ウズベキスタンの民族衣装

  2003年9月9日〜15日 サマルカンド〜タシケント 走行 298km+58km+0km+0km+0km+0km+50km TOTAL 15,593km
 ホームステイ

ホームステイ先のホストファミリー、カモルさん 「不潔なハドラホテルはもうまっぴら」
 タシケントへ戻ったら多少高くてもいいから清潔で快適なホテルに泊まることにしていた。町に着いて早々、運良く日本語を喋る現地人に出会い、彼からはホームステー先を紹介してもらうことになった。連れていってもらった先が中庭のある大きな家で、24時間ホットシャワー、一日三食付きで一人US$10とのこと。町の中心から少し離れているが、近くに地下鉄の駅があるので市内の移動には不便がない。
 7日間の滞在中、ホスト役のカモルさんはウズベク語のイロハや、ウズベキスタンの伝統行事・習慣などを教えてくれた。

 マシーナバザール

 タシケントではタイヤとバックミラーを求めて、自動車部品専門のバザールへ。セルゲリバザールと言われるそれは町の外れに存在し、地下鉄とバスを乗り継いで向かう。しかし1時間以上かかってやっとたどり着いたそのバザール、あるのは四輪の部品のみでバイク用の部品は皆無だった。以前はバイクのセクションもあったようだが現在はその形跡も無くなっている。しかも四輪の部品・用品も悲しくなるほど品揃えが少ない。

 別な日にホンダのバイクショップへも行ったのだが、ここで売られているのは東南アジアの工場で製造されたとみられる125ccクラスのオフロードバイクと400ccのアメリカンタイプ、それにスクーターの新車のみ。バイクに並んで冷蔵庫やガスレンジも売られていた。
 バックミラーの在庫を訊くが、部品は扱っていないと言う。なんとまぁ、タイヤなどの消耗部品さえ扱っていないと言うのだ。新車を売っているのに消耗部品の供給をしないとはどういうことだろう。アフターサービス無くしてバイクが売れると思っているのだろうか?

 イランビザとトルクメニスタンビザを取得

 イラン大使館でビザを受け取ったあと、トルクメニスタンビザの申請へ行こうとしたのだが、インビテーションレターが出来上がる予定だった日が土日を挟んで三日も先送りになってしまった。しかし、インビテーションレターさえ手に入ればビザそのものは即日発行。ビザ代金は僕たちがとった10日間有効のものでUS$51だが、30日有効のビザを取得していた松尾さんはエクスプレスだったこともありUS$131もとられていた。
 毎度の事ながら中央アジアの国々はビザをとるのに時間とお金がかかりすぎてうんざり。ソ連崩壊直後はビザなしでほとんどの国を回れたというのが夢のようだ。せめてCIS諸国は国境をフリーパスにして通貨も共通にすればいいのに。そのほうが地域の経済発展にも好都合だと思うのだが、利権食いに明け暮れる腐れ政治家・悪徳役人どもが支配している国々のこと、そんなのは夢物語にしかすぎないのだろうか。
 ロシア帝国の支配から解放されて10数年経過したCIS諸国だが、新しい国作りのために政府と国民が良い関係を築いて発展しつつある国もあれば、腐敗した政治家に支配されソ連時代よりも更に不自由になっている国もあるように見える。

 【みどり日記】

 タシケント市内あれこれ

 タシケント市内の移動には、地下鉄が便利だ。バスは何番バスに乗ればよいのか、結局最後まで路線がわからなかったが、地下鉄はシンプルでわかりやすい。改札は入るときだけ。どこまで乗ってもたったの120スム(約15円)である。公共交通機関の料金は概ね同じくらいだが、今年になってもう二回も値上がりをしているという。地下鉄駅のホームは思いのほか綺麗であった。それぞれにモチーフがあるらしいので、その装飾を見比べてみるのも楽しい。
 地下鉄や道路にはやたらとポリスがいるので要注意。言いがかりををつけられないようにしよう。交通違反で捕まっている車を数多く見かけた。
 ガソリンスタンドは、タシケントでもオクタン価93のない日が多かった。バザールなどでガソリンをハイオクにする液体が売られている。その名も「ハイオクタン」。

ナボイ劇場の内部 インターネットカフェは至る所にあった。1時間1,000〜1,200スム(約120円〜150円)。OLOYバザールの向かいのインターネットカフェが速くて便利だったが、郊外に出るとダイヤルアップ式で日本語も読めずFDも使えないというような、全く役に立たないところもあった。

 電話はタシケント市内の通話は無料だという。したがって商店などに頼むとただで貸してくれるところもあるらしい。ただし電話お断りの張り紙があったり、携帯電話だからといって料金を請求されることもあるので、よく聞いてみよう。

 郵便は、日本への絵葉書の切手代が一枚につき125スム(約15円)。一週間から10日ほどで着く。中央郵便局以外のところから送るのは控えた方が良さそうだ。市内で絵葉書を探すのに苦労をした。郵便局にはほとんど置いてなく、ホテルのショップではそうとう高く売られていた。大きな書店で買えることがわかり、私たちはナボイ劇場近くでやっと見つけた。

 クレジットカードでのUS$キャッシングは、ホテル、銀行の窓口でできた。ATMは現地通貨の引き下ろししかできなかった。NBU(ナショナル・バンク・ウズベキスタン)銀行の手数料は3.5%、他では4〜5%とのこと。シェラトンホテルではマスターカードしか使えなかったが手数料2%でやってくれた。

 街の中心あたりにあるOLOYバザール。少々高めらしいが、品数多く品質も比較的良いらしい。闇両替できるショップも何軒かあった。

 ウズベキスタンの結婚式

結婚式の前日朝に食べるプロフは油が薄い味付けで大変美味かった。 ホームステイをしていた家の向かいのお宅で、結婚式が開かれるという。せっかくなので私たちも出席させてもらうことにした。
 まず結婚式の前日の朝、日の出前に男性だけが集まってプロフを食べる習慣があるという。弘行は朝6時頃、カモルさんに連れられて出かけていった。花婿の家に行き、テーブルに案内され、ただプロフを食べるだけだったという。今まで食べたプロフの中では一番おいしかったと言って満足そうにして帰ってきた。

結婚式前日の朝、新郎とその世話人の男性だけがひな壇に上がる。 結婚式は、新郎の家の前の路地を通行止めにして夜7時頃から行われた。金屏風のかわりに電光板がおかれ、モスクのかたちにライトが点滅している。ご両人の隣には日本で言う仲人に値するのか、付添人も座っていた。
 路地にテーブルが置かれ、ご馳走が振る舞われた。新郎の家に厨房が設置され、料理はそこから次々と運ばれてきた。楽隊や歌手まで用意され、日本の結婚式にも負けないくらい盛大で華やかだった。
結婚披露宴のひな壇はネオンでギラギラしていた。 披露宴はほとんどが歌ったり踊ったりの大騒ぎ。たまに友人の芸が披露されたりした。新郎新婦へのプレゼントとして絨毯や食器などが、友人知人らより手渡された。
 夜7時から始まった結婚式の宴は、11時から夜中の1時にまで及ぶこともあるという。ウェディングドレスを着た花嫁さんも、屋外でそれほど長く行われたのでは体力的にも大変であろう。私たちも寒かったので、途中で家に戻ってきてしまった。
 この日からウズベキスタンは急に寒くなってきて、すっかり秋めいてきたのだった。

 生まれて初めてバレエを見る

日本人捕虜が建てたナボイ劇場。 JICAの派遣できている看護婦さんから、日曜日にナボイ劇場でモスクワバレエの公演が開かれると教えてもらった。私たちも少しは“文化ライダー”になろうと見に行くことにした。
 秋になるとナボイ劇場では、週末にバレエやオペラの公演が開かれるようになる。この劇場は、戦争中捕虜となって連れてこられた日本人が建てたそうである。1966年のタシケントの大地震では、このあたりのほとんどの建物が崩れてしまったが、このナボイ劇場だけは倒れずに残っていたという。それ以来ウズベキスタンの人々は日本人に一目置いているらしく、今でも「日本人はすばらしい。」と言って歓迎してくれるそうだ。
 そのおかげもあってか、私たちもチケット売り場のおばさんに歓迎を受け、前から7番目の中央といういい席をもらえたのだった。
「白鳥の湖」 今日の演目は、私たちに一番馴染みのある「白鳥の湖」。
 生まれて初めて見たバレエは本当に感動してしまった。とにかく動きがすごすぎる。特に足の動きが。トゥだけで体を支えてくるくる回る。ふんわりと浮かぶようにジャンプして足を小刻みに動かす。昔読んだ少女マンガを思い出してしまった。本当にこんなことができるんだなぁ。そのすばらしい体の動きを見ていると、サーカスに通じるものがあるように思った。こりゃ人間業じゃない。オリンピックのフィギュアや体操を見ても思うが、旧ソ連圏の技術はすごい。
 一人US$25(約3,000円)という料金は私たちにとって安いわけではないが、日本では決してこんな値段で見ることはできない。払った価値が充分にある公演だった。
 ウズベキスタンは旧ソ連圏の国だからロシアバレエの公演があり、安く見られるのだろう。意外な穴場かもしれない。

 

  2003年9月16日〜17日 タシケント〜サマルカンド 走行 298km+0km TOTAL 15,841km

 ルスタンさんに再会

ルスタンさん一家と再会! 一週間のタシケント滞在を終え、再び移動の日が始まった。
今回は、松尾さんに是非会いたいというルスタンさんの言葉を実現すべく、松尾さんと一緒にサマルカンドを目指す。
 途中ガソリンを入れる予定のスタンドが停電のため3時間も立ち往生してしまったが、その先しばらく走ったところで運良くジェリ缶入りのガソリンを買うことができた。しかし価格は通常の相場の二倍だ。それにしても300kmもの間ガソリンのあるスタンドがないなんていったいこの国は!? 

 サマルカンドではバザールでお土産を買った後ルスタンさん宅へ直行。家の前まで行くとチムールがボールで遊んでいた。
 「ヒロ!みどり!待ってたよー!」
 たった一週間のブランクだけど懐かしい面々が次々と出てきた。まるで自分の家にでも帰ってきたような感じだ。
 おばあちゃんは、
タシケントからの道の途上、松尾さんの後ろを走っていて気になったのだが、彼のバイクが路面の凹凸をすべてバネ上で拾っているようで、車体の揺れが収まらない。あれは明らかにダンパーが効いていない証拠だろう。松尾さんがサイドバッグを外してリヤサスを見てみるとやはりダンパーオイルが漏れ出ていた。 「ああ息子よ、ヒロは私の息子同然よ、よく帰ってきたわね〜」
 と言って熱く抱擁してくれた。先週別れたときは三〜四日で戻ってくるといって出てきたので、みんなまだかまだかと首を長くして待っていてくれたそうだ。家族のみんなはバイクのような音が聞こえる度に外へ出て道を見ていたそうだ。そしてルスタンさんは魚の買い付けに行く際も対向車線を凝視して僕らの姿を探していた。もう涙が出るほどの歓迎ぶり。

 

 【みどり日記】

 コンピュータ学校

 前回来たときに、弘行のパソコンに興味を示したチムールとルスタンさん。チムールはさっそくコンピュータ学校に通い出したという。3ヶ月で36,000スム(約4,400円)という授業料は決して安くはない。それでもいつの日か私たちとメールを交換するためにチムールは頑張って勉強を始めたのだ。ルスタンさんもパソコンを買うつもりだと話してくれた。思わぬ大きな買い物をさせてしまうことになったが、チムールから来るメールを私たちも楽しみに待つことにしよう。

 再び結婚式に参加

 家でのんびりしていると、奥さんのグーリャさんが「みどり、これから一緒に結婚式に行こう。」と言う。慌てて準備に取りかかった。この前もらったウズベキスタン風の衣装を着る。眉毛はまたウスマで描いてくれた。ファンデーションや口紅など最低の化粧品を持ってきたのがここで役に立った。グーリャさんはネックレスと指輪、靴を貸してくれた。そこそこのお出掛けスタイルの出来上がり。
 結婚式はお昼ごろ近所の家の庭で行われた。ウェディングドレスを着た花嫁の家だという。ご近所の女性等が僅かのご祝儀を持って集まっていた。生演奏に踊り子さんも登場していたが、グーリャさんに言わせると、あまり豪華じゃなかったという。この辺りではレストランで開かれることが多いが、この家はお金がないから自分の家でやるのだという。式の間に披露される新郎新婦への贈り物もあまり豪華じゃなかったようだ。ウズベキスタンでも結婚式は盛大さを競うようなところがあるのだろう。人目が気になるので品粗な結婚式は惨めに感じるのかもしれない。こういうところはどこの国でも一緒かな。

 ウズベキスタンの料理

 グーリャさんとザリェーマさんにウズベキスタンの料理を教わった。メニューはガルブチュイとサラダ。ガルブチュイとはロールキャペツと肉詰めピーマンをスープで煮込んだものである。
 ここで初めて知ったのだが、ラグマンなどでもよく見る赤いスープはトマトの色だったらしい。私は今まで香辛料か何かで赤く染まっているのだと思っていた。
 ロールキャベツなどに使う肉餡には普通パン粉が使われると思うが、ウズベキスタンではお米を使うところが変わっていると思った。

<ガルブチュイの作り方>

ウズベキスタン風ロールキャベツ 「ガルブチュイ」 1.牛挽肉、タマネギのみじん切り、米、すりつぶしたジィラ(ハーブの一種)、溶かしバター、塩、水を入れてよくこねる。
 2.ピーマンのヘタと種を取る。
 3.キャベツの葉はゆでて柔らかくする。
 4.肉詰めピーマンとロールキャベツを作成する。
 5.鍋に油をたっぷりめに入れて熱する。
 6.タマネギ、すり下ろしたトマト、ジャガイモ、人参、余ったキャベツやピーマンのざく切り、骨付き羊肉(ダシ取り用)を入れてよく炒める。
 7.肉詰めピーマンとロールキャベツを並べる。
 8.ローリエ、水、塩を加えて蓋をする。
 9.40分弱火で煮る。
 10.盛りつけた後、グリーンタマネギのみじん切りを散らす。

<ウズベキスタン風サラダ>

 1.タマネギのうす切りを水にさらす。
 2.キュウリの皮をむき、縦四つ割した後うす切りにする。
 3.トマトのへたを取り、薄くスライスする。
 4.グリーンタマネギ、ウクローブ(ハーブの一種)を細かく刻む。
 5.ニンニクをスライスする。
 6.すべてをボールに入れ、黒胡椒をふりかける。
 7.食べる直前に塩をふって、よくかき混ぜる。

 

  2003年9月18日〜19日 サマルカンド〜ブハラ 走行 282km+14km TOTAL 16,137km
 ルスタンさん一家との別れ

松尾さんは一足先に出発。 合計一週間もの間、一日三食の食事の他、おやつのメロンやスイカをたらふくいただき、その上装飾ナイフやシルクの民族衣装などたくさんのおみやげも頂いてしまった。もう至れり尽くせりで何てお礼を言っていいのやら。
 「お礼の印に何か渡そうよ」
 お金をあげるのは大変な失礼になるのではないかと思ったが、かといって今差し上げられるような気の利いた物は何も持っていないし、次はいつ来れるかわからない。彼らが日本へ来る可能性もかなり低いだろう。このまま去ってしまうと後悔すると思い、「パソコンの購入資金の足しにして」 というメッセージを添えてUS$50包んだ。

 別れ際に「あとで読んでね」 といって渡す。しかし出発してすぐにニーバが追いかけてきた。やはりお金を返しに来たのだ。
 「友達なんだからお金はいらないんだよ」
 「いいや、これはみんなの親切に対するお金じゃないよ。これは単なるチムールとオゾダへのプレゼント。パソコン買うための資金にして。」
 みんな目に涙がにじんでいた。自分もこらえきれずにバイクを走らせた。ポロポロとこぼれた涙はウズベキスタンの乾燥した風に吹かれて蒸発した。

 ブハラに到着

Mir-i-Ara Medressa 荒涼とした半砂漠の中を走り、シルクロードの古都ブハラへ。古い建物が残る旧市街の中心部までやってきてホテルを探しにかかったとき、偶然にも今日泊まる予定だった宿の娘が通りかかった。NAZZIRAという名のそのホテルは中庭があり、バイクを安心して置いておける他、旅行者が利用できるキッチンやインターネットに接続できるパソコンも備えてあり、つい長居したくなるような快適さ。
 ガソリンを探して町へ出ようとした時など宿のオヤジさんが親切にも車で先導してくれてガソリンのあるスタンドを探し当ててくれた。そこはホテルから7kmも離れた町外れ、幹線道路からも離れているので自力で見つけるのは困難だろう。

 ここでビザを延長してしばらく滞在しようとしたのだが、ビザの延長はタシケントへ行かないとできないとのことで残念。それがわかったらゆっくりはしてられない、ビザの期限は残りあと二日しかないのだ。

 ぼったくりの町

Mir-i-Ara Medressaをカロン・ミナレット(塔)の上から眺める。 ここでは時期はずれの夏休みをとって短期の旅行にやってきた女性Wさんに会った。我々の旅の話を聞いてしきりに驚いているのだが、独りでウズベキスタンへやってくる彼女もすごい。しかし道中でセクハラにあったり、ぼられたりしてかなり疲れている様子。その上、この辺りは砂漠地帯のためか水質が悪く、そのおかげでお腹の調子もずっと悪いらしい。

 話に聞いたとおり、この町は欧米や日本からの観光客が多いためか、ホテル街周辺の物価がやたら高く、商人も露骨にぼったくってくるので困ったもの。カロン・モスクの二階の窓から
 昨日の夜のこと、ホテル近くにある池の周りの食堂で食事したのだが、予め調理人に価格を聞いておいたのにもかかわらず、ぼられそうになった。給仕する人が曲者で、相場の二倍の値段をふっかけてくるのである。その時はシャシュリク5本買えるお金を払ったのに4本しか出してこないので抗議すると、「ああごめん、今一本焼くからまってな」 と言って客を待たせる。しかし出す気は更々ないらしく、何十分待っても出てきやしなかった。
 「出さないなら金返せ!」 と言ったら「これでいいか?」 と生肉を出す始末、くやしいのでその生肉を串ごとつかみ取って持ってきてやった。結局宿に戻ってガスコンロの火で焼いて食べることに。肉は旨いが後味が悪い。ブハラは砂漠の中の町なので水がまずいと聞いていたが汚い水を飲んでいると腹も黒くなるんだろうな。

「ARK」 城壁に囲まれた要塞都市

 【みどり日記】

 遺跡巡り

「カロン・ミナレット」 内部は螺旋階段が上まで続いていた。 ビザの期限が翌日に迫ったので、一日でざっとブハラの観光を済ませた。城壁の向こうには、モスクやらミナレットが見えて異国情緒たっぷり。タイムスリップしたような空間に、お土産売りの声が響く。
 今までは中国人や韓国人などに間違われることが多かったが、ここではすぐ「日本人か。」と聞かれる。最近は日本からのツアー客やパッカーが多いようだ。ウズベキスタンでは今年、映画の撮影も行われている。
「カロン・ミナレット」内部の螺旋階段。階段が急な上、真っ暗闇でこわい。 ミナレットは内部が石造りの螺旋階段になっていて一番上まで登ることができた。一人US$3支払い、10歳の少年の案内で登っていく。私たちおじさん、おばさんにはちょっときつい階段だった。大人が案内に就かないわけだ。少年はとても気が利くよい子で、説明をしたり写真を撮ったりとサービスしてくれた。上から見るブハラの街はまた格別である。

 水が悪いというブハラ。弘行のお腹の調子が悪くなってきた。観光は早めに切り上げ、寝込む始末。
 そのうち何だか私もお腹の調子が悪くなってきた。ヒバへ行けなかったのは心残りだが、もうウズベキスタンはこれでいいやと思った。早く次の国へ進みたい。

 

みどりの食卓

左】ガルブチュイ ロールキャベツと肉詰めピーマンのスープ(作り方参照)
【右】ウズベキスタン風サラダ 
ウズベキスタンではキュウリとトマトのサラダが一般的だった。(作り方参照)

 


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