ウズベキスタン (1)

アンディジャン〜タシケント〜サマルカンド


シルクロードの古都サマルカンド

 2003年8月26日 ジャラルアバッド〜オシュ〜アンディジャン〜クコン 走行 310km TOTAL 14,409km
 国境越え

国境でロシア製自動小銃"カラシニコフ"を借りる さて、心配した地域へ入ってきた訳だが、実際オシュの町へ来てみると一見して何てことない普通の町だった。ちょっと前までは外務省の危険指定地域に入っていたのだが、つい最近になってその指定からも外されたとのこと。町の周辺は農地が多く、豊穣な大地に農作物がたわわに育っている。
 キルギス〜ウズベキスタンの国境はトータル30分ほどで簡単に越えることができた。キルギス側はパスポートと国際登録証を渡し、ノートに記入してもらうだけ。ウズベキスタン側では税関申告書を二枚書き、そのうちの一枚は滞在中携帯するために返される。バイクの通関はノートにナンバーを記入するだけ。あとはイミグレでビザにスタンプを押してもらい終了。
 キルギス側では手続きの合間、国境警備の兵士が旧ソ連製自動小銃”カラシニコフ”を持っていたので写真を撮らせてもらおうとしたら、なんとその自動小銃をこの手に持たせてくれた。こんな国境の人混みの中で見知らぬ旅行者に銃器を渡すとは大胆な!
 「もし僕がキチガイ野郎で、いきなり乱射でもしたらどうするんだろうね〜。ははは,,,」

 ガソリンが無い!

 国境を出るとき、役人が「ウズベキスタンにはガソリンが無いよ」 と言い出した。「そんな馬鹿な!」 と思って走り出したのだが、所々に見かけるガソリンスタンドはどこも閉店。入り口にはガソリンが無いことを示す看板が立てかけられていた。ウズベキスタンは一応産油国なのだが、国内需要を満たすまでの量は産出できず、不足分は輸入に頼っているらしい。
 ガス欠を半ば覚悟して走っていたのだが、100km近く走った先でやっとオープンしているガソリンスタンドを見つけた。しかし、そこでは車が20〜30台も行列して給油待ちをしていた。その上93オクタンのガソリンは売り切れで、あるのは76オクタンのみ。76オクタンではエンジンがノッキングして良くないのはわかっているが、ガス欠になるよりはましと思い車の列に並ぶ。
 今日は快晴で気温30度を越す炎天下。 「いったい何時間待てばいいんだ!?」 列の後ろでうんざりしていたら、ありがたいことに給油係の人に手招きされ、優先的に給油してもらうことができた。

 【みどり日記】

 国境越えの鉄則

 ビシュケクから一緒だった松尾さんとはホテルで別れた。松尾さんはこの微妙な国境線地帯が気に入ったらしく、もう一泊していくという。
 オシュに向けて走り出すと辺りはますます猥雑さが増してきて、「シルクロードだなぁ。」と感じるようになった。荷車に満載された牧草やら果物などを、少年たちが馬を操って運んでいる。小さい子供でも立派な働き手だ。
 午前中に国境の町オシュに到着。残りわずかのキルギス通貨を使おうとガソリンスタンドへ行ったが停電だった。1〜2時間で復旧するとのこと。昼食でも取りながら待とうかとも迷ったが、お金もないしお昼休みに突入する前に国境を越えてしまおうとすぐさま向かうことにした。だがその判断は間違いだったと、ウズベキスタンに入ってから後悔することになる。両替してでもそうしておけば良かった。まさかガソリンがないとは!
 国境を越えるときは、ガソリンを満タンにしてから行くようにしよう。次の国の実情がわからないときはなおさらだ。そしてお腹も満たしてから臨みたい。空腹感が増すとイライラして思考力減退、喧嘩になりやすい。その後しばらくガソリンスタンドを探してさまよい、昼食を取れなかった私たちはそれらを実感するのだった。

 迷子になっちゃた

 何だか物事がうまく運ばない日は二人ともイライラ。つまらないことでも言い合いになる。「いいから早く行ってよ!」と言うと、キレた弘行は“速く”走り出しあっという間に見えなくなった。「もう!」 しょうがないから、こっちはこっちでマイペースにやってやろう。どうせ一本道。町の手前では待っていてくれるでしょう。
 ところが、途中で道を間違え、やっとたどり着いたクコンの町でも弘行は見あたらない。
 「こんなバイク見ませんでしたか?」と聞きながら、あっちこち捜し回るが見つからない。こんなところで迷子になっちゃった。今晩泊まるホテルのお金もないのでまずは資金調達をして、それから再度捜すことにしよう。

 闇両替

US$100両替したら抱えきれないほどの札束が来た キルギスは町に行くと両替屋がたくさんあったのに、ウズベキスタンでは全く見あたらない。もうすでに銀行も閉まっている時間帯。どうしたものかと人々に尋ねるとポリスが「バザールで換えられる。」と教えてくれた。後で知ったことだが、この国は銀行やホテルなどでしか正式には両替できないらしい。バザールなどでの闇両替は違法だ。ポリスに見つかると大変なことになるのだが、このときはポリスが教えてくれたんだからしょうがない。
 一般に、銀行レートはUS$1=974Cym(スム)程度なのに比べ、闇両替の方がやや高く、US$1=1,000スム以上で換えられる。

 バザールへ行くと、あっという間に大勢の人々に囲まれてしまった。こんなところで一人ごそごそとお金を取り出すのはイヤだなぁ。こんな時に弘行がいてくれたら気を逸らしてもらえるのに。そう思いながら両替屋と野次馬を相手に一人奮闘する。「ええい、そんなに寄ってくるんじゃない!」
 バイクをチラチラ気にしながらの両替は、US$1=1,010スム。悪くない。US$50換えたらものすごい札束になった。念のためそのぶ厚い札束を数えてからバイクに戻ると、意外なことに人が寄りついていなかった。「もう、飽きちゃったのかしら?」と思って見上げると、人だかりはもう一台のバイクの方にいた・・・。
 「あっ、弘行だ!」
 この瞬間、ウルトラマンか王子様でも現れたかのように心強く、嬉しかった。
 弘行も私を捜し回っていたようだ。同じように途中で道を間違えたのではぐれたと思い慌てたらしい。ウズベキスタンに着いてそうそう、お騒がせの二人であった。

 

 2003年8月27日 クコン〜タシケント 走行 241km TOTAL 14,650km
 フェルガナ盆地からタシケントへ

ウズベキスタンではバイクを停めるとすぐに人だかりができる フェルガナ盆地は敬虔なイスラム教徒の多いところ。炎天下の暑さでも多くの女性がショールをかぶり、手足の肌も露出させずに顔だけ出して歩いていた。ところが、山をひとつ越えフェルガナ盆地を抜け出すと、町のガソリンスタンドでは半袖短パン姿をした金髪美女が働いていてビックリ。保守的なイスラム教徒の多いフェルガナ地方では考えられなかった格好である。日本で言う「看板娘」的な発想なのだろうか。客ひきにそれなりの効果がでているようで、フェルガナ地方からやってきたと思われるオヤジも鼻の下をのばしながらうれしそうに給油してもらっていた。
 「むむ、なかなか商売上手な給油所だね。」

 【みどり日記】

 ウズベキスタンの実情

 フェルガナ盆地からタシケントへ向う途中、何度もパスポートチェックのための検問にあった。フェルガナ地方は中央から虐げられ、分離独立の動きも盛んなところ。さらにキルギスやタジキスタンの国境も迫る場所なので、通行者を管理しているのだろう。
 
今日も相変わらず、オクタン価の低いガソリンしか見つからなかった。DR650と違い圧縮比の高いDJEBELは、渋滞にはまるとノッキングが激しい。
 
夜入った食堂では、留学生からこの国の実情について話を聞いた。民衆を大切にしているとは思えない政権、秘密警察による監視、撤退する外国企業、品数の少ないスーパー。シルクロードの観光地として日本でも最近脚光を浴びているウズベキスタンだが、将来に不安を感じてしまうのだった。

 

 2003年8月28日〜9月2日 タシケント 走行 0km+22km+0km+0km+0km+0km TOTAL 14,672km
 再びビザ待ちの日々

トラベルエージェンシーの親切なスタッフたち この先進む国々ではトルクメニスタンとイランでビザが必要なのだが、イランビザは直接領事館へ出向いて7日間程度で取得できるものの、トルクメニスタンのビザは領事館で直接取得することはできず、旅行代理店でインビテーションレターなるものを取得してもらう必要があった。
 インビテーションレターとは先方の国の招待先が国の機関を通じて発行する招待状のこと。現地に何のコネクションもない旅行者は、現地と提携している旅行代理店に頼んで「招待してもらう」という建前を作るわけだ。
 しかしなんと、その手配などに二人分170ドルもの大金と二週間もの期間かかるらしい。
 そんなわけで、タシケントでは再び足止めをくらうことになった。足止めになることを予想していたとはいえ、都市部で何日も過ごすというのはストレスがたまるもの。特に滞在費の高い都市部では最低クラスの安宿に泊まらざるを得ないのだが、すさまじくボロっちいホテルにいると身も心も荒んでくる。
 町で最低クラスのホテルは一人US$6。蠅がブンブン飛び回る狭くて暑苦しい部屋、鼻が曲がるほど臭くて汚いトイレ、天井から階上の排水が滴るバスルームではシャワーも無く、蛇口から直接お湯を浴びた。

 【みどり日記】

 イランビザの申請

 水曜日の夕方タシケントに到着し、ヤスミナツアー社へ直行。次の日にはイランビザにインビテーションは不要だとわかったが、翌日の金曜日から日曜日までイラン大使館は休み。さらに月曜日は9月1日、ウズベキスタンの独立記念日である。日のめぐりが悪かったため、イランビザの申請をするだけで一週間もタシケントに滞在しなければならなかった。
 タシケントのイラン大使館での申請は思いのほか簡単だった。キルギスではイランビザの取得が大変だと聞いていたので、拍子抜けするほど。受付で申請書を2枚書き、パスポートとコピー、写真3枚を添えるだけ。女性の場合、写真はスカーフで頭を覆ったものでなければならないが、事前に人から聞いて用意しておいたのでよかった。
 女性一人ではビザを取りにくいと聞いたこともある。私たちは夫婦だったからよかったのか。特に問題もなくすんなり受理され、受け取りは一週間後ということだった。パスポートのオリジナルは返されるので、その間は自由に旅行もできる。

 サーカス

タシケントのサーカス 泊まったハドラホテルのすぐ近くにサーカスの建物があった。ちょうど今週末から公演が始まるそうだ。その華やかな明かりに誘われて、さっそく見に行くことにした。
 公演は12時、3時、6時の一日三回。いい席でも250円くらいで見られる。私たちは一回目の公演を見るために11時頃に出かけていった。サーカスなので周りはウキウキ気分。小さい子供のいる家族連れが多かった。
 サーカスは結構おもしろかった。アクロバット、手品、動物使い、ピエロなど一通り楽しめた。人間業とは思えない体の動きに、驚いたりハラハラしたり。アラビア風の音楽、衣装、振り付けなどもあり、異国を感じさせた。特に女性のアラビア風衣装が艶めかしい。きらびやかなハイレグビキニに布をヒラヒラさせて、その色っぽさに弘行の目は釘付け。「サーカスは、子供も大人も楽しめるねぇ。」などと迷言を吐いてニタニタしていたのだった。

 独立記念日

フェルガナ地方出身の大学生にタシケント市街を案内してもらった 9月1日は独立記念日。中心街まで行ってみることにした。地下鉄で知り合った親切な大学生の二人に一日中案内をしてもらうことになった。
 まずはアムールティムール広場。ここは昔、赤の広場と言われ、レーニン像が建っていたそうだ。今ではアムールティムールの像が建っており、革命広場とも言われている。そこからインディペンデンス広場(独立広場)をつなぐ道がブロードウェイと言われる繁華街だ。屋台やお土産売りが立ち並ぶ。
 次はアムールティムール博物館。彼はこの国で一番の英雄である。二人の案内でいろいろなことを教えてもらった。それにしても自分の国の歴史についてこんなに詳しく説明できるなんて。私たちは日本の歴史についてこれほど外国人に説明することができるだろうか。
 様々な勢力がかわるがわる支配していった中央アジア。ウズベキスタンは1991年8月に独立を宣言して、今年で12年になる。

 

 2003年9月3日 タシケント 走行 0km TOTAL 14,672km
 みどり家出

蠅だらけのハドラホテル とりあえずビザの申請が一段落したので窮屈なタシケントを出ることに。目的地は南に約300km行ったところのザーミン国立公園。しかし、昨日ネットカフェの接続が切れていたため、本日の午前中ホームページの更新やメールの送信などをしていたのだが、接続速度があまりにも遅く、一通のメールを送るだけで10分以上かかってしまう。そのためみどりのメールの送信がすべて終わった頃には昼近くになってしまった。
 こんな遅い時間に出発しても目的地へ着く前に夜になってしまうだろう。なので仕方なく、「もう一泊して明朝早く出ようか。」 と提案したのだが、みどりは、「もうこんな所にいたくない!」 と言って爆発してしまった。
 「おいおい、今から出ても目的地に着かないうちに陽が暮れてしまうよ。」
 「いや、出ると言ったら出るの!」
 せかせかと出発の準備をするみどり。一時過ぎになって本当に出ていってしまった。いつものことだが、みどりは後先考えず行動するので一緒にいる方は大変だ。

 一時間くらいしたら自らの愚かさに気がついて戻ってくるだろうと思い待っていたのだが、夜になっても戻ってこなかった。普段70km/hくらいでトロトロ走るみどりのこと。南へ真っ直ぐ走っても砂漠の中で日が暮れるはずだ。道に迷って変なところで立ち往生してるんじゃないだろうか、悪徳警官にいじめられてないだろうか、気になりだしたらもう眠れない。

 【みどり日記】

 夫婦喧嘩は犬も食わない

アムールチムールの像 一週間も待ってやっと昨日イランビザの申請が済んだ。今日は出発できるぞ〜。と思いきや、インターネットに思いのほか時間がかかってしまった。メールの文章は昨日打ってフロッピーに保存していったので、切って貼るだけの作業だったにもかかわらずだ。
 昼近くになったため気が削がれたのか、「出発は明日にしよう。」などと弘行が言い出した。いつもそうだ。インターネットの接続が遅かった、ホームページの更新が間に合わない、出がけに知人に会ってしまった等々の理由で、今までも出発を一日遅らせることが度々あった。その一日が後になると貴重な一日となっていつも後悔していたのだ。今回は絶対そんなふうにしたくない。何よりも私には、この停滞している時間が耐えられなくなってきた。目的地なんかどこでもいい。この時間で行ける場所に替えればいいじゃないか。とにかくどこでもいいから出発したい。
 言っても理解してくれない。常日頃の不満も鬱積していた。ここは行動で抗議しよう。「一人で行く!」と言って荷物のパッキングを始めた。荷物を階下に下ろし、バイクを玄関から出してしまうともう後には引けなくなってしまった。「お里へ帰らせて頂きます。」というお嫁さんの気持ちとはこんなものかもしれない。
 「いつどこで待ち合わせにする?」と聞くと、「一週間後イランビザの受領日にこのホテルで。」などと言う。私と同じで彼もなかなか頑固だ。止めてくれもしない。ホテルの女性は一人で出発する私を怪訝に思いながらも、「やるわねぇ。」という表情で見送ってくれた。

 さて、頭に来た勢いで出てきてしまったが、どうしよう。北方100キロほどの所にある湖に行くと一応言って出たものの、それこそ本当に一週間別行動になってしまいそうだ。今日のところはタシケントで別のホテルに泊まり、明朝戻ることにしよう。
 この際だから一人でいいホテルに泊まってやる!と思ったが、一泊シングルでUS$60という値段を聞いてやめた。どうせいいホテルに泊まるのなら、やっぱり二人がいい。
 事前に名前を聞いていた安宿を探してみたが見つからない。タシケントは総じてホテルが高く、安いと思えば、現地の人しか泊めないと言って断られた。女一人なので治安も心配だ。結局中級クラスのホテルにその日は泊まったのだった。

 

 2003年9月4日 タシケント〜ザーミン〜サマルカンド 走行 515km TOTAL 15,187km
 みどりを探して500km

ウズベキスタンの綿花畑 ベッドに横たわるがほとんど眠れないまま時間が過ぎる。結局、居ても立ってもいられなくなり、夜も明けない4時に起きだして明け方の5時には出発することになった。昨日話していた予定では南へ300kmのザーミン国立公園方面へ走っているはずだが、去り際に北東方向の湖へ行くようなことも言ってたっけ。方向が逆なので目的の絞りようがないのだが、なんとなく南を探したらいいような気がしてハイウェイを南下する。

 途中カザフ領を通り抜け、ザーミン国立公園へ。地図を見ると国立公園内を通る道はサマルカンド方面へ抜けているのだが、公園のエントランスゲートでは、「通り抜けられないよ」 と言われる。何故なのか聞くと、この先で武装したタジク兵が国境を越えて公園内を徘徊しているので危険だからという。みどりについて訊いても「知らない」 との答え。
ザーミン国立公園のサナトリウム(温泉療養施設) しかし、16km先のサナトリウムまでなら大丈夫とのことで一応そこまで入ってみるが、みどりが来た形跡はなかった。
「いったいどこへ行ってしまったんだ?」
 元来た道を少し戻り、サマルカンド方面を目指す。しかし、途中で道を聞いたポリスにビザのレジストレーションについて指摘され、パスポートを取り上げられてしまった。
 「賄賂ほしさに意地悪する気だな」 と思ったので、「日本大使館に連絡するから町まで行くぞ!」 と怒鳴りつけてやった。するとその警官は無線機でどこかと連絡を取り始めた。やがて無線で呼ばれた別な警官がやってきて署まで行こうとのこと。話を聞いていると、この辺りはタジキスタンとの国境が近いため、この地域に入ってきたら新しくレジストレーション(外国人登録)をしなければならないらしい。

 結局近くの町まで警官同伴で行ってレジストレーションすることになったのだが、警官が乗ってきたバイクがその場でガス欠。仕方なく警官を後ろにのっけて、タンデムで警察署へ行く。このときすでに12時を回り、レジストレーションをする部署は昼休み。昼休みが終わるまで2時間も足止めになってしまった。
 「あ〜、なんだかついてないなぁ。」

 サマルカンドでの出会い

ビビハヌーン・モスク 二時過ぎにやっと警官から解放され、更に200km走ってサマルカンドの町に着いたときはもう夕方。町のホテルを何軒か回るが、みどりの気配はまるでなかった。「この町には来ていないのだろうか。」

 途方に暮れて道ばたで休んでいると、四駆に乗った地元の人が停まってくれた。車から出てきたのはバイク好きなルスタンさんと、その息子のチムール君。

Registan: Sher Dor Medressa (Sher Dorとはライオンの意味) 厳かな雰囲気を期待していたが、内部はお土産屋が軒を連ね、商魂で渦巻いていた。 安い宿を訊くと、
 「是非うちに泊まっていって」
 とのありがたい答えをいただいた。お言葉に甘えついていった先が中庭のある大きなお屋敷。大きな部屋はエアコンが効き、テレビは衛星放送が入っている。エアコンのある部屋に入るのはこの旅始まって以来である。炎天下を走って汗だくになった身には贅沢すぎるほどありがたかった。こんな立派なお家に招かれるとはなんて幸運な、みどりもいればよかったのに。

Registan: Sher Dor Medressa コミカルなライオンの絵が壁面に描かれている。 そしてその家について30分くらい経過した頃だろうか。チムール君が、「ヒロ、友達が来たよ〜!」 と言うので外に出ると何とまあ、みどりがいるではないか!? 道ばたの人に訊きながら探して来たらしい。しかしこの広い町で会えるとは何たる偶然だろう。それにタイミングも絶妙。昼間、警官に二時間足止めさせられたのもすべて神様に計算されていたかのようだ。
 聞くと、みどりがタシケントの安宿を出ていった日、南へは走らずに市内の高くて快適なホテルに一人で泊まっていたらしい。翌朝8時に僕がいるはずの安宿に戻ってきたのだが、もう出発した後で慌てて追いかけてきたとのこと。
 「いやぁ、呆れてものも言えないよ。でも無事に会えてよかったよかった。」

 【みどり日記】

 私のダンナはどこ?

Registan: Tilla-Kari Medressa 朝8時過ぎ、弘行のいるホテルへ向かった。いつも9時くらいまで寝ている弘行のこと、まだ出発してはいないだろう。久しぶりに会う恋人のところへ行くようなソワソワした気分。ところが、ホテルへ行くともう弘行のバイクがない。「朝早く、5時頃出発していったよ。」と管理人が言う。そんなに早くに行くとは!
 同じホテルに泊まっていた松尾さんにも聞いてみた。彼も弘行が出発したことすら知らないようだった。
 「心配で心配で眠れなくてそんなに早く行ったんじゃないか?まあ、たまにはこういう別々の時間もあったっていいさ。」と松尾さんは言う。弘行のそんな様子を思うと、ジワッと涙がにじむのだった。
 
Registan: Ulughbek Medressa 途方に暮れている場合じゃない、とにかく彼の後を追おう。さて北へ行ったか南へ行ったか。5時に出発したのなら、例え北の湖に私を探しに行ったとしてももう戻ってくる頃。それなら私も南下してサマルカンドを目指そう。
 サマルカンドへの幹線道路で検問のポリスに聞いてみた。すると、3時間ほど前に弘行らしきバイクを見たという。やっぱりこの方向でよかったのだ。こんな時は検問がとても役に立つ。通行者を見るのが仕事だから、通ったかどうかは聞けばすぐにわかる。
 「こんなバイクに乗った人、見ませんでしたか?」という問いにみんな親切に答えてくれた。ところがその先の検問では、「そんなん知らん。見ていない。」と言われてしまった。サマルカンドへの道は二通りあり、私はカザフスタンを経由しない遠回りの道を、弘行は経由する最短道を走っているようだ。
 「まあ、いいからこれでも飲みな。」といってお茶を出してくれた。メロンも切ってくれた。ポリスにいじめられるどころか、私はお世話になってばかりだった。

Registan: Ulughbek Medressa 二つの道が合流した後の検問で尋ねると、「一時間くらい前に通った。」と教えてくれた。その後、サマルカンドの町へ入ってからも人々に聞きつづけた。「20分前にそっちへ行った。」「15分くらい前に見かけた。」「三回くらいここを通って行ったよ。」とだんだん弘行の存在が近づいてきた。
 あっちへ行った、こっちへ行ったという情報を頼りにサマルカンドの町を走り回る。この道を曲がったと言う人と、ここでは見かけていないと言う人。矛盾した情報に途方に暮れた。でも根気強く捜しまわり、同じ質問を繰り返すのだった。
 
「グッジェ、モイ、ムシュ(私のダンナはどこ)?」

 やっと見つけた!

イラン人の床屋さん この辺りだと思うんだけどなぁ、とフラフラ走っていると、激坂T字路に突き当たった。路面も荒れているのでコワゴワ走る。近くにいた男の子達は右の激坂を上れと言うし、左の方ではご婦人たちが「こちらに下りてらっしゃい。」と呼ぶ。躊躇していると、背後でこっちこっちと手招きをする人が。「あなたの捜している人は家にいるわよ。」
 荒れた路面でじたばたしながらUターン。気が付くと弘行も背後であきれた顔して立っていた。
 「ああ、やっと会えた〜!」
 私はずっと捜し回っていたというのに、弘行ときたらちゃっかり人の家にお世話になってくつろいでいたようだ。
 それにしても人々はよく見ているものだなぁ。親切に教えてくれた人々に感謝である。
 みんなのおかげで私の家出も、たった一日で無事終了したのであった。

 

 2003年9月5日〜8日 サマルカンド 走行 0km TOTAL 15,187km

 サザンと鯉

サザン(鯉)の仕入れ ルスタンさん一家は近郊で獲れた魚を買い付け、それを市場やレストランに卸すという仕事を生業にしていた。扱っている商品柄、早朝三時くらいに買い付けに行き、昼までにはすべて卸して帰ってくる。主に扱っているのはサザンという種類の川魚で、日本のコイにそっくり。何度かこの魚の料理を食べさせてもらったが、川魚特有の泥臭さがなく実に旨い。日本のコイ同様小骨がちょっと気になるが、唐揚げから酢漬け、スープの具まで何でも美味しくいただいた。
サザン(鯉) 実は自分、この旅の出発前まではコイ料理で有名な佐久市という町にいたのだが、何年も住んでいながら佐久では一度もコイを食べたことがなかった。生まれて初めてコイを食べたのがこの旅に出発した当日のこと、その日の晩に泊まった長野市にあるみどりの実家で、義父母が「無事帰ってコイ」 という願いを込めて鯉こくをご馳走していただいたのが初めての経験であった。
 「あの時食べた鯉こくも美味しかったなぁ」
 長野から何千キロも離れたウズベキスタンの地で、現地の人の温かさと共に長野の義父母の温かさを思い出しながらサザン(コイ)料理に舌づつみを打った。

 メカニック

アムール・チムールの像(サマルカンド) ルスタンさんは軍役時代にジェット戦闘機ミグ23のメカニックをやっていたそうで、機械類の修理技術もなかなかのもの。彼はロシア製の「NIBA」という小型四輪駆動車に乗っているのだが、自分好みの改造を施していた。
中でも驚いたのは、エンジンをプロパンガス仕様に改造していること。ガスボンベやインジェクターなどの部品だけ買ってきて、取り付けは自分でやったそうだ。燃料補給は日本の都市ガスのように各家庭にガスが来ているので、そのガスを充填する。パワーはガソリンよりも劣るが、燃費が良いので燃料代が約半分に節約できるらしい。そして、遠出したときに困らないよう、いつでもどこでも簡単にガソリン仕様に戻せるようになっていた。
 他、フロントのショックアブソーバーをもう一本追加したり、ステアリングダンパーも自分で追加。道の悪い道路でもハンドルを取られることなく快適に走ることができる。ガレージの片隅には中古部品のサンルーフが置いてあり、「これからグラインダーで屋根を切り取ってこいつを取り付けるんだ」 と嬉しそうに言っていた。

 一時のさよなら

チムールの霊廟グル・アミール 二日くらいでおいとまする予定が、引き留められつつも五日間お世話になる結果となった。毎日おいしい料理を食べさせてもらったり、息子のチムール君や娘のオゾダちゃんには市内の博物館や旧跡を案内してもらったり。最後は旅の安全を祈願してお守りまで頂いた。言葉の通じない異邦人の我々をこんなにまで大切にもてなしていただき感謝感激。旅の目的は?と、よく人に訊かれるが、こうして異国に友達という財産を作るために旅しているのだと思う。
 タシケントでビザをとってきたらまた戻ってくることを約束してルスタンさん一家と一時のさよなら。

 

 

 

 【みどり日記】

 メメトブ家の人々

「クラバート」で一家団欒 私たちがサマルカンドで5日間もお世話になったメメトブ家の人々。家長のルスタンさん、奥さんのグーリャさん、おばあさんのエルミラさん、ルスタンさんの妹ザリェーマさん、息子のチムール君(13歳)に、娘のオゾダちゃん(10歳)。
 
ルスタンさんはタタール人で、奥さんはタジク人。ちなみに奥さんのお母さんはイラン人だという。サマルカンドには様々の民族の人が住んでいるようだ。でも結婚するくらいだから結構仲良くやっているのだろう。学校ではウズベク語を始め、タジク語、タタール語、ロシア語の四ヶ国語も習っているという。これでは英語まで習得する余地はなさそうだ。サマルカンドではタジク語を日常会話としている。

バザール ルスタンさんは、私たちを「友人だ。」と言ってとても大切に扱ってくれた。こちらの人は、自分のことよりもお客人や友人を大切にする人たちだと思った。子供たちも人のもてなし方や気の利かせ方がよくできている。そして大人の言うことを聞いてよくお手伝いをしていた。ルスタンさんいわく、「働かざるもの食うべからず。」うわ〜、頭が痛いなぁ。旅人は旅が仕事だからいいんだよと言って許してくれた。
 働かざる私たちなのに、メメトブ家ではたくさんご馳走になったのだった。奥さんとザリェーマさんはおいしい料理をたくさん用意してくれ、おばあさんからは、「さあたくさんお食べ、お食べ。」と勧められるので、本当にお腹がはちきれそうになった。食事は中庭に設けられた「クラバート」と呼ばれるデッキのようなスペースで取る。朝顔でいい具合に日陰ができ、涼しい風が入る。この暑い時期にはなんとも気持ちがいい。夜、ここで寝ることもあるそうだ。

チムール&オゾダに市内を案内してもらう 庭では犬と鶏を飼っていた。魚料理で出た内臓などの生ごみは、よく煮て彼らの餌となるので何の無駄もない。犬は番犬となり、鶏は日に三、四個の卵を生んだ。
 屋外トイレはコンクリートの床に穴が開いただけのもの。トイレットペーバーは穴に落とさず、備え付けの金属バケツに入れる。汚いペーパーを入れるのに初めは抵抗があったが、バケツに入れたまま燃やしてしまうので大丈夫なのだ。ごみが出ないで何とも合理的。でも、日本では野焼き禁止で怒られそうだ。

 チムールとオゾダにはサマルカンド案内もしてもらった。チムールはお父さんにお金を渡されてしっかりと言い付かってきたらしく、アイスなどを買い振舞ってくれた。悪いので払おうとしたのだがまったく受け取ってくれない。まるで子供におごってもらっているようだった。
 大人のようにしっかりとしているかと思えば無邪気にじゃれあう二人。チムールとオゾダの楽しそうな姿を見ていると、この国がずっとずっと平和であってほしいなぁと思うのだった。

 ウズベキ風コスチューム

民族衣装とアラビア衣装 おばあさんとザリェーマさんが私にハラットと呼ばれるエプロンドレスのような服を買ってくれた。そしてグーリャさんは、スカーフとコンプレクツという上下組み合わせの服を私にプレゼントしてくれた。上着はプラッツァというふわっとしたワンピース、下はシタヌィといわれるズボンが付く。ウズベキスタンの女性は、普段からこのような服を着ている人がほとんどだった。
 ウスマと呼ばれる草の汁で眉を描くいきなり私は着せ替え人形となった。プレゼントされたウズベキ風衣装に耳飾とネックレス、カルパックと呼ばれる美しい帽子やティアラなどをとっかえひっかえ付け替えては鏡に映す。なかなか様になってきた。アクセサリーを付けるだけでとても映えるものなのだと感心した。こちらの女性は自分を美しく着飾る方法をよく知っているんだなぁ。みんなおしゃれで色っぽい。オゾダも手先や身のこなし方、表情に10歳とは思えない色気を感じることがある。そういえば、いとこのお姉さんは16歳で結婚したと言ってたっけ。
 夜は、ウスマと呼ばれる草の汁で眉を描いてくれた。パウダーを眉毛にふった後、絞った草の汁を綿棒に付けて描く。うちわで扇いで乾かした後、水で軽く洗うのだ。しっかり描かれた眉は、見慣れないのでちょっと滑稽でもある。こちらの女性は眉を左右つなげて描く人もいて驚いた。それこそ私たちには滑稽に思えたが、これもおしゃれな描き方のひとつなのだろうか。

 豊かな国

壁は金の装飾が施されている(Registan Ulughbek Medressa) 毎日デザートに出されるスイカやメロン。40円〜90円くらいで買えることに驚くが、日本での値段を聞いてルスタンさんはさらに驚いていた。そこからいろいろな物価の話に発展した。
 車やビデオなどの贅沢な工業製品は日本と同じか、物によってはちょっと高め。けれども食品は安く、総じて日本の十分の一程度の値段だった。
 お給料は、ザリェーマさんを例にとると、勤続13年になる学校の先生が月給約5,000円くらいだという。この安さにも驚いた。それで暮らしていけるのかな?
 その代わり土地や建物も安い。一坪たったの30円くらい。5階建てアパートも30万円くらいで買えるとか。
 結局、どちらの国の方が本当に“豊か”なのかわからなくなってきた。

 居心地のいい家

 ひと通りの観光がすんだ日、「明日出発する。」と告げると、チムールに「どうして?」と言われてしまった。「出発なんかするな、ずっとここにいろよ!」とうれしいことを言ってくれる。ルスタンさんも、「タシケントに帰らなくちゃいけない日までずっとここにいればいいよ。そしてビザが下りたらまた戻っておいで。」と言う。
 というわけで、結局ビザ待ちの間、ずっとお世話になってしまった。あまりにも居心地がいいので、思わず甘えてしまう私たち。サマルカンドの他にも行きたいところがなかったわけではない。でも、やっぱり旅の財産は人だよね、と思うのであった。

 

みんなに見送られて出発!

 


みどりの食卓

 

【左】サザンの唐揚げ 内臓と鱗の処理をして切った後、塩をまぶして油で揚げる。油を熱するときに、小さめのたまねぎを入れると油の臭みが取れる。
【右】サザンの唐揚げにかけるトマトソース 生のトマトをすりおろし、にんにくの汁を加える。キンサとウクローブという2種類のハーブを加えて、塩で味を調える。さっぱりとしていて、揚げ物にはよく合う。

【左】カーシャ バターを乗せたミルク粥。ルスタンさんは、これに砂糖をかけて食べていた。
【右】ナン サマルカンドのナンは、このようにふっくらずっしりとしていて、ウズベキスタンでは一番おいしいと言われている。

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