トルクメニタン (1)

チェルゼフ〜マリー〜サラーフス


金箔で覆われたニヤゾフ大統領の像

 2003年9月20日 ブハラ〜チェルゼフ 142km TOTAL 16,332km

 国境越え

ツアーエージェンシーの人が車で先導してくれた。 国境には11時半に到着したのだが、ウズベキスタン側では税関申告の用紙が無く、それを印刷するのに一時間以上も待たされてしまった。しかも係官の仕事が遅くてイライラ。トルクメニスタン側では12時にツアーエージェンシーの人が待っているはず。「人が待っているから早くして」 というのだが、そんなことまったくお構いなしだ。
 そしてウズベキスタンを出国できたのがちょうど1時頃、しかし、悪いことに1時からトルクメニスタン側の国境施設が昼休みに入ってしまい2時まで一時間も待たされるはめになった。ビザをとるときから始まり、ウズベキスタンの公務員にはいつも我慢を強いられてばかり。

 炎天下での一時間待ちは辛かった。しかも昨日からずっと腹の調子が悪く、頭もガンガン痛い。本当なら体の調子が回復するまで連泊してゆっくり休むところなのだが、ビザの期限切れが迫り、次の国へ入国する日も決まっているとなってはそんなこと言ってられなかった。
 トルクメニスタン側ではツアーエージェンシーの出迎えがあり、入国・通関手続きはエージェンシーの人が通訳しながらすすめてくれた。しかしトラベルパスポートなる短冊や出入国カードなど煩雑な書類手続きがあり、更には通過予定ルートの距離を元に強制保険やガソリン税などが課税され、一人あたりUS$57も徴収される。更に入国税がUS$10。
 それにしてもこの国では何から何までお金ばかり取られ頭に来るなぁ。すでにインビテーションの取得費用などに二人でUS$170、ビザ代にUS$102も払っているというのに....。

 トルクメニスタンは外国人の行動が厳しく管理されており、ホテルは決まったところにしか泊まれない...というかホテルの数自体限られている。入国時に通過予定ルートを決める必要もあり、通る道を決めると白地図に線が記入される。この地図の入った書類は道中の検問でチェックされるので、それ以外のルートを通ると違反になってしまうのだ。つまり他の国のように、気の向くまま自由に好きな道を走ることができないのである。

 このあたりは道の脇にアムダリヤ川から引いた潅漑用の水路が続いていた。水路の水は灰色に濁り、まるでどぶ川のようになっている。やはり水質は悪化しているそうで、近辺に住む住民は健康被害に悩まされているとのこと。更には潅漑用水に大量に水を使うためアムダリヤ川の水量が減り、この川を水源としていたアラル海の海面が下がってしまうという問題も出ているようだ。

 外国人料金?

 国境からはトラベルエージェンシーの車のあとに続きながら50km走り、トラベルエージェンシーのオフィスへ。そこではビザのレジストレーションをしてもらう。
 その後町で唯一のホテルに案内してもらったはいいのだが、まともにお湯も出ず、シャワーも壊れているような安っぽいホテルにUS$60もかかってしまった。トルクメニスタンの人と思しき人も泊まっていたのだが、平均月給が60〜80ドルのこの国のこと、どう考えても一ヶ月分の給料に相当する大金を払って泊まっているとは思えないのである。あとでわかったことなのだが、現地人は自国通貨マナトで支払いができ、しかも日本円換算にして僅か数百円で泊まっていることがわかった。
 トルクメニスタンで外国人はホテルへの宿泊にドル払いしかできないとのこと。しかしそのドル払いでのレートが外国人料金になっていて、法外な額になるらしい。まるで国家ぐるみでぼったくっている感じだ。

 【みどり日記】

 演技力

ネオンでライティングされている公園 今までの国境越えではあまり大した荷物検査はされなかった。やっても形式的にバッグを開ける程度だった。ところがウズベキスタンのカスタムでは、私の前にいたインド人ビジネスマンが財布の中身からスーツケースの隅々までチェックを受けていたので焦ってしまった。私たちは現金も少なめに申告していたし、ルスタンさんからもらった刀剣も没収されかねない。やばいと思った私は体調が悪いふりを始めた。係官に簡単にさっさと済ませてやろうと思わせるためだ。本当に朝からお腹の調子は悪かったのだが、必要以上にしゃがみ込んだり、頭を抱えたりしてみせた。
 それが効いたのかどうか、少なめに入った財布を渡しても、「その他はバイクのところにある。」と言うと、それ以上の追求はされずに済んだ。
 ところが今度は税関申告書が一枚足りないと言ってきた。本当は二枚書かなければならなかったのだが、弘行は私の手違いで一枚しか書かないまま来てしまった。また最初の場所へ戻らなければならないとしたら面倒だなぁ、と思っていると弘行が突然、「お前がいけないんだぞ!」とばかりに怒り出し、外へ出て行ってしまった。私は係官に謝り、「何もそんなに怒らなくてもいいじゃない。」と言いながら弘行の後を追ったのだった。その足でイミグレに行き、出国スタンプを押してもらって無事通過。弘行が怒ったのも、面倒なことを回避するための演技だったのだ。
 このようにうまくいくとは限らないが、国境越えには多少の演技力が必要なこともある。ただ私の場合、演技しているうちに本当に頭を抱えるほど具合が悪くなってしまった。病は気からとはよく言ったものだ。

 中央アジアの北朝鮮

町中至る所に大統領の写真が飾られていた。 トルクメニスタンは「中央アジアの北朝鮮」と言われるほどの大統領独裁国家である。大統領の一存ですべてが決まり、近隣諸国へもあまり詳しい情報が公開されていない。町じゅう、国じゅうの至る所にニヤゾフ大統領の写真が掲げられていた。聞いてはいたが、異様な光景だった。看板や建物の壁に始まり、タクシーのフロントガラスにまで写真が貼ってある。そして写真には、「偉大なる人」という意味の言葉が添えられていた。
 私たちのサポートをしてくれた旅行会社の女性に、「大統領、好き?」と聞いてみた。彼女は「ええ。」と答えながらも複雑な表情をしていた。一応そう言わなければいけないのだろうか。聞いてはいけない質問だったかもしれない。「私の3歳の子供も、『大統領を愛しています。』なんて言うのよ。」そう言って彼女は首をすくめた。

4kgの金箔で覆われた大統領の像 公園には4kgの金箔を貼った大統領の像があった。ライトに浮び上がって輝く像には圧倒される、というか呆気に取られた。この金箔が剥がされることもなく存在するこの国は、それほど治安がいいのか、それとも恐れ多くて誰も手を触れるものはいないのか。   

 

  2003年9月21日〜23日 チャルゼフ〜マリー〜メルブ遺跡 260km+0km+0km TOTAL 16,592km

 レペテックのゲストブック

 チャルゼフの町を一泊で出て次の町マリーへ。腹の調子はまだ悪かったが、一泊US$60ものホテルに連泊していたら資金が足りなくなってしまう。
 マリーへの道は砂砂漠の中に真っ直ぐ舗装道路が延びていた。時折ラクダの姿を見かけながら走っていると途中の砂漠の中にカフェが出現。地図にはレペテックという表記があるが、あるのはこのカフェとガソリンスタンドくらいらしい。せっかくなのでここで昼食を摂ることにした。店の人が何やら分厚いノートを出してきたので見てみると、旅行者のメッセージが書かれていた。ここを訪れた旅行者のゲストブックらしい。
レペテックのカフェでゲストブックを読む。 ゲストブックにはタンデム自転車でユーラシア大陸横断中の二組の夫婦(宇都宮夫婦と西畑夫婦)がメッセージを残していた。ここは今年6月に通過したらしいのだが、僕たちがキルギスを旅しているときに大阪の友人夫婦(彼らも10年以上かけて自転車による世界一周ツーリングの経験あり)からメールで彼らの存在を聞いていたのだ。我々とは逆方向に走っていたのでどこかですれ違うかな?と思っていたのだが、同じ時期に同じ国を走っていたものの結局会えずじまいで残念。
 それから過去の書き込みを遡ってみてみると、二年前にここを通った優子さん&健一郎さん夫婦の書き込みも発見した。優子さん&健一郎さんとは以前からの顔なじみである。出発はもう二年以上も前になるのだが、壮行会キャンプで見送ったのが懐かしい。この日記を書いている現在、アフリカを走っているとのこと。

 たくさんの検問を経て夕刻マリーの町に着。この町もホテルは一軒しかなく、しかも一泊US$30と高値。昨日泊まったホテルよりは安いが、設備が古く値段相応の価値は無かった。たくさんのゴキブリに壊れた冷蔵庫、お湯は朝晩の限られた時間帯しか出ない。

レペテック自然保護区でラクダの夫婦に会う。

 メルブ遺跡

発掘中の城壁。土盛りの中から壁が出現している。 胃腸の調子が良くなってきた頃、マリー滞在三日目にして市内の博物館を訪れた。中へ入ると博物館の館員が二人もついてきて、展示物をそれぞれ英語とロシア語で解説してくれる。更には午後メルブの遺跡へ行くという話をしたら、館員の一人が格安で案内してくれることになった。

 案内してくれた館員というのが実はメルブ遺跡の発掘に5年前から関わっている考古学者だ。彼には家に招いていただいた上昼食までご馳走してもらい、その後は広範囲に分散する遺跡を車で案内してくれた。遺跡案内のときはさすが考古学者、行く先々で事細かく解説をしてくれた。時々、そのへんに落ちている青銅貨や陶器の破片を拾っては「これは何世紀のもの、あれは何世紀のもの」と説明してくれる。
40人の女性が飛び降りた砦 さてこのメルブ遺跡だが、昔は交易都市として機能していたようだ。東西南北から様々な勢力や宗教が入るという土地柄、戦乱も耐えなかったようで、遺跡の周りはぐるりと一周高い城壁で囲まれている。しかし古い時代の城壁は周りに土が堆積し城壁の形をとどめていなかった。まるで高い土盛りが広範囲を一周しているだけのように...。
サンジャールモスク 遺跡を回った中でもう一つ印象深かったのは日干し煉瓦でできた砦のような建物。ここでは昔、モンゴルからチンギスハーンの軍勢が攻めてきたとき、捕らえられるのを恐れた女性が砦の上から飛び降りたという悲しい歴史があるそうな。その数40人も。

 さて、遺跡見学が終われば明日でトルクメニスタンともお別れ。結局4泊5日の滞在のみで、国がまだはっきり見えてこないうちに出国しなければならないのが残念。

 【みどり日記】

 貴重な少額ドル紙幣

 トルクメニスタンの通貨マナトのレートは闇両替でUS$1=20,000〜22,000マナト、公式ではUS$1=5,000マナト程度。この差は大きいのでふつうは闇両替をする。両替屋は駅やホテル周辺にたくさんたむろしている。
 ただこのレートも交換金額によって少し変わってくる。ふつうは多く交換するほど交渉によってよいレートにすることが可能だが、トルクメニスタンでは小額紙幣の方がレートがよい。US$50紙幣、US$100紙幣などはあまり好まれないようだ。
 ホテルは外国人に対しては高額な別料金のドル払いで要求してくる。そのくせドルのおつりを用意していない。私たちは毎回、丁度の額を用意しなければならない。受け取った小額紙幣はどこに隠しているんだ? 
アイスハウス 階段を降りた先に井戸水が貯まっていた。 そんな体質が気に入らなくて、US$20のホテル代に対してUS$50紙幣を差し出してみたことがある。そのときは一度受け取ったもののやはりおつりが用意できなかったらしい。両替屋を連れてきてその紙幣を崩すと私にその両替屋への手数料を要求してきた。何か腑に落ちない。ホテルと両替屋の間の問題なのだから、ホテルが払うべきではないのか? 頑として支払いを拒否した。かわいそうなのは両替屋だった。今思うと、やはり私が支払うべきだったのかもしれない。この国は支払う方が丁度の額を用意するというルールなのかもしれない。
 国によって価値観やルールは違う。トルクメニスタンとは逆に小額紙幣の方が不利になる国もあると聞く。どちらにも対処できるように旅行者は準備と柔軟な対応をしなければならないと今は反省している。

 住みやすい国?

パキスタン人経営の食堂 マリーの街はとても綺麗だった。公園はよく整備され、噴水やライトなど資源をふんだんに使って飾り立てていた。国民は電気、ガス、水道が無料で供給されるそうだ。ガソリンもものすごく安く、1リットル当たり約3円程度。これならば国民も大統領を本当に支持し、敬愛しているのかもしれない。「大統領の写真が多くて驚いた。」と言うと、「日本では写真を飾らないのか。」と逆に聴かれてしまったこともある。
 それに対して、トルクメニスタンは外国人にとってとても旅行しにくい国である。安いガソリンは、ガソリン税という形で追加徴収される。走行ルートは管理され、検問がやたらと多い。ホテルの外国人料金は数倍も高い。外国人からお金を搾取して、国民に還元でもしているのだろうか。
 北朝鮮のイメージがあったので人々は貧しく、恐怖政治なのかと思っていたが、意外とそうでもないようだった。人々はふつうに幸せそうに暮らしているように感じられた。もしかしたら思ったよりも住みやすい国なのかもしれない。でも、わずか数日の旅では本当のところはよくわからなかった。

 

みどりの食卓

【左】グレイチカ 麦飯チャーハンのようなもの。人参などの野菜が入っている。素朴な味だが、歯ごたえがあって、ちょっと食べ慣れない。
【右】トルクメニスタンのミネラルウォーターとコーラ

 


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