キルギスタン (2)

ソンコル湖〜ビシュケク〜オシュ


ソンコル湖手前で標高3,448メートルの峠を越える

  2003年8月20日 カラコル〜ソンコル湖 408km TOTAL 13,146km

 高原の湖へ

つづら折れの山道をグングン登る 名残惜しいがヤクツアーホステルを一泊で出発。ほんとはこの居心地の良い宿で一週間くらいゆっくりしたいところなのだが、時間的に余裕が無くなってしまったのが残念。今はビザなどの関係でスケジュールがタイトだ。
 イシククル南岸を西へ進みソンコル湖を目指す。右に青いイシククル湖、左には氷河を抱いた雪山が見え隠れした。南岸は北岸よりも交通量が少ない上、景色の変化もあるので気持ちよく走れる。ただし、沿線の村々は寂れ気味で墓地だけがやたら多いのが気になるところ。

ユルタキャンプの子供たち ソンコルへの道は80kmほど未舗装路が続き、途中3448メートルの峠を越える。ここまで登ってくると気温がガクンと下がり、手先がかじかんで体がガタガタ震えた。峠に残雪があるくらいだから夜は氷点下に下がるのだろう。湖へ着いた頃は日がとっくに暮れて真っ暗闇の中を走る。青白く光る湖が神秘的だが、道路以外人工的な物がまるで無いように見える。まわりはどこを見渡しても山と荒野だけ。時折闇の中に浮かぶのは遊牧民のテント「ユルタ」と馬の群だけ。やがて「宿かな?」と思える建物が見えたが、日干し煉瓦のその建物は屋根が落ち、空っぽの廃墟となっていた。
 「さて、今日はどうやって夜を明かそうか」
 野宿を覚悟してキャンプできそうな場所を探しにかかる。ところが、その途中で会った車が運良くツーリストキャンプのオーナーで、車について行くと無事ユルタの宿にありつくことができた。そこはモンゴルのゲル宿泊施設に似たような感じだろうか。キャンプに着くや、すぐに食事がふるまわれ、熱いお茶が冷え切った体と心にしみわたる。吐く息は白いが、人々は暖かく、満天の星空が綺麗だった。

 100%天然素材の家「ユルタ」

遊牧民の家 "ユルタ" ユルタとはキルギスの遊牧民が住居として使う大型のテントのこと。モンゴルのゲルに似ているが、屋根の傾斜がゲルよりも急で、ゲルにあったような二本の柱がない。
 また、モンゴルでよく見られたゲルは職人が電動工具で作ったようなものが多かったが、ユルタは100%手作りの風合いがある。屋根の骨組みも壁の格子状の木組みもナイフで削って作った感じ。釘は一切使わず、牛皮を穴に通してリベットのように使っていた。外側を覆うフエルトも刈り取った羊の毛をお湯で手漉きして作るそうだ。バラすと馬三頭で移動できるという。
 日本へ帰ったら、この100%天然素材の家を長野の地に再現してみようと思う。多少は日本の気候風土にあわせてアレンジする必要があるかもしれないが、自分の手で作った家に住めるのが楽しみだ。ただし、頭の固いお役人さんがやってきて建築基準法がどうのとまくし立てられるかもしれないけどね。

【みどり日記】

 闇夜のソンコル湖

 舗装路を走っていると、右折して50キロでソンコル湖という標識が出てきた。ここからはくねくねとした未舗装路が続く。西日が眩しくて路面がよく見えない。スピードが格段に落ちる。
 やっと峠から下の方に湖が見えてきた。もうすぐだと思いきや、これがなかなか着かない。そのうち遠ざかっていくようにさえ見える。GPSで確認するとやはり湖から離れてきているようなので引き返すことにした。その頃には日はとっぷりと暮れていた。
 私は道を確認するため、向こうから来た車に大きく手を振った。二人の男が車から降りてこちらにずんずんやってくる。それを見たら何だか急に怖くなった。確かキルギスには山賊が出るんじゃなかったっけ。私はやばい人でも停めてしまったんじゃないだろうか。弘行は前を走っていたのでここにはいない。「逃げなくちゃ」と慌ててバイクにまたがった。走り出そうとする前に一人の男が声をかけてきた。英語で優しそうな声。ホッっとして道を聞く。引き返す必要はなかったということがわかった。もう一人がツーリストキャンプを経営しているというので私たちは付いていくことにした。
 延々と真っ暗なダートを20キロ以上も走ったが、いつまで経っても着かない。そのうち、やっぱり騙されているんじゃないかとも思えてきた。ここで身ぐるみ剥がされて放り出されたら凍死するなあ、と変な想像までしてしまった。
 やがて、道から逸れるとユルタが数棟現れた。そのうちの一棟に泊めてもらうことになった。ホットして見上げると、ユルタの上は怖いくらいの星の数。冷えて澄み切った夜空は、今まで見た中で一番すごい感動を与えた。
 結局50キロどころか80キロもダートを走ってやっとたどり着いた。手前岸は湿地帯のため近づけないので、湖の畔に出るにはこのように反対岸まで回り込まなければならないようである。

ユルタの食堂

 ガスティーニツァ・ユルタ

 湖の畔にあるこのユルタキャンプは、バイウシュさんの経営するガスティーニツァ(ホテル)・ユルタだ。37歳の彼は奥さん、娘三人とここで暮らしている。他にもう一家族と数人の従業員とでお客の世話をしていた。他に牛、山羊、羊多数。子供たちは真っ赤なほっぺをして毛糸の帽子とセーター姿。八月でももうこんなに寒いのだ。冬もここで暮らすのだろうか?
 ユルタの造りはモンゴルに比べると薄い。そのうえ薪ストープも使えなかった。ガタガタ震えるほど寒かったが、暖かいもてなしがありがたい。モンゴルほど洗練されていないが、素朴な感じがいい。
 素泊まり一泊一人120ソム(約360円)、三食付きで420ソム(約1260円)。ユルタに泊まらずに、自分のテントを張ることもできる(無料)。
 ソンコル湖には、他にこのようなユルタキャンプが数社あるようだ。

 

  2003年8月21日〜23日 ビシュケク 356km+0km+0km TOTAL 13,502km

 ビシュケクで松尾さんに再会

(左から) ジョージ、アレキサンドラ、みどり、松尾さん 朝、氷点下近い寒さで目が覚めた。あまりの寒さに耐えかね早々とユルタの宿を後にする。昨日走ってきた道を戻ると、峠では雪に降られた。しかし山を下って下界に降りると半袖短パンで過ごせるほど暖かい。

 ビシュケクへ戻る途中、道ばたの露天で巨大メロンを買う。細長いラグビーボール型のメロンはずっしりと重かった。その重さ実に8キロも。店番をしているムスリムのオヤジさんは、僕たちが日本から走ってきた事を知ると丸いメロンをおまけにくれた。

 ビシュケクでは安いホテルを探し当てたら、宿の前に松尾さんのバイクを発見。カバーがかかっていたが、あの大きさは正に水平対向六気筒のワルキューレだ。ウランバートル、イルクーツクに続き三度目の再会。
 それにしてもこの広い世界でよく再会できるものだね。それほど旅人の行動範囲が似ているって事かな。更に翌日は、バイクや自転車で旅行しているスイス人夫婦、アレキサンドラとジョージにも出会い、旅人五人で巨大メロンを食べながら旅談義にふける。

 アレキサンドラとジョージ

ハイブリッドライダー アレキサンドラとジョージ 彼らは一年以上も前にスイスを出発して以来、ロシア〜中央アジアを横断。カザフからは列車で中国に入り、北京経由でベトナムまで行った。インドシナを回った後バンコクにバイクを預けるのだが、そこからはなんと自転車に乗り換え再び中国を横断。チベット高原を越え新彊ウイグル自治区のカシュガルへ、そしてここキルギスまで走ってきたらしい。
 規制が多くバイクでは旅がしにくい中国を自転車に乗り換えて旅するとはなかなかフレキシブルな発想だ。しかし自転車となると体力もいるだろうと思ったが、彼らは大学を出て結婚した後すぐに旅に出たためまだ二十代という若さだった。
 今後の予定ではここで自転車を売却後バックパッキングでバンコクまでもどり、再びバイクでの旅を再開、オーストラリア、南米〜中米〜北米へと走る予定とのこと。

 また、彼らは一年前にここでケンジ&ふみえさんに会ったとのことだった。僕とケンジさんとは面識はないのだが、以前から海外ツーリング情報掲示板やメールで意見交換していた旅仲間である。彼はもう7年間もバイクによる旅を続け、その行程のなかでも今まで難しいとされていたルートを次々と走破しているタフガイだ。中央アジアで出会う旅人はフロンティアスピリッツ旺盛な人ばかり。

 レーニンが消えた!

レーニン像が立っていた台座 一週間のショートトリップを終えビシュケクに戻ってきた時、町を歩いていてある異変を感じた。なんと先週まで立っていたレーニン像が台座を残して消えていたのだ。
 今から十数年前、東西の冷戦が終結しソビエトが崩壊したときに、東欧のあちこちでレーニン像が倒されていたのをテレビで見た事を思い出す。まさか今更と思ったが、聞くとあのレーニン像は単に公園の後ろの方に移設することになったとのこと。レーニンの代わりにキルギスの英雄"マナス"像が立つ事になったらしい。いったいどういう力が働いているのだろう。単なる移設工事とはいえ、小さな事ながらも歴史は確実に動いている事を実感する。

 

みどり日記】

 巨大メロン

ラグビーボール型の巨大メロン ビシュケクへ戻る途中、沿道で売られている巨大メロンを買った。白っぽい皮で果肉も白。1キロ当たり7ソム(約21円)と安い。8キロのメロンを買ったので約170円。
 ホテルで松尾さんと三人、おいしいおいしいとむしゃむしゃ食べたが半分食べるのがやっとだった。味はまるで極上メロン。
 その夜中、弘行はお腹の調子が悪くなり吐いてしまった。食べ過ぎたようだ。こちらでは一般に、メロンを食べた後は水を飲まない方がいいと言われている。そのかわり緑茶を飲むといいらしい。冷たいものはよくなく、暖かいものを口にするといいという意味でもあるようだ。日本ではお腹を壊すほどメロンを食べることはないので知らなかったなぁ。日本での価格を話すとみんなびっくりしていた。

 両替屋でボラれそうになる

 ビシュケクに着くと、宿に行く前にドルをソムに替えるため両替屋が並ぶ通りへ向かった。客引きがうるさい。けれど、「トイレ」と言ったら相手にもしてくれなくなった。親切にトイレを案内してくれたお兄さんのお店で替えることにした。人はいいけど勘が鈍いお兄さんは、「お礼はいいよ。」と手を振るばかり。他の店にお客(私)を取られそうになってやっと気づいてくれた。
 店内に入るとそのお兄さんのボスと思わしきおやじが現れた。100ドルを受け取ると、3,700ソムだと言ってきた。何で?表示によると4,220ソムのはずなのに。女だと思って舐めてかかっているんだろうか?それとも時間が遅いので時間外価格?
 「ニェット!(だめ)」と叫ぶ。ドル紙幣は既に渡しているので立場は弱いが、少なく出されたソム紙幣を断固として突っ返し続けた。最終的には向こうが折れてちゃんと払ってくれた。気が抜けないったらありゃしない。
 ヘルメットを見て「バイクはどこだ?」とニタニタ聞くオヤジに、「ボーン、タム!(ホーラ、あっち!)」と言い放って出てきた。

 やっと取れたウズベキスタンビザ

 申請に手こずったウズベキスタンビザの受領日がやってきた。今回はリストに名前があったようで、ホッとした。9月1日はウズベキスタンの独立記念日のため、その前までの期間しか下りないかもしれないという噂があったが、ちゃんと1ヶ月間もらえた。パスポートを渡すと、「午後3時に取りに来なさい。」との返事。
 3時に再度出向くと、午前中に会った二人の日本人の若者も来ていた。彼らはこれから申請をするところだそうだが、午前中は時間切れで追い返されたらしい。私たちと同じような目に遭っているなぁ。経験者としてアドバイスをした。「受付のおばちゃんにひるんじゃいけないよ。」と。
 彼らが先に中へ入った。しばらくして私たちが呼ばれて中に入ると、彼らはまだ粘っていた。おばちゃんは相手もせずに、私たちの対応を始めた。私たちはビザの貼られたパスポートをすんなり受領することができたが、彼らはいつまで粘っていたのだろうか。
「こうなったら金払って、エクスプレスでやってもらおうぜ!」と叫ぶ彼らの行く末を見たかった。

 レーニン談議

 今回は、レーニン像移転の話題から、マルクス・レーニン主義についての話題へと発展した。
 もともとの社会主義思想はいい考え方であったらしい。 みんなが働いて、働くと自分の分以上のものが出来るので、その余った分を供出し合っていけば社会は豊かになる、という考え方であったらしい。それが、旧ソ連ではみんなが働かなくなったからダメになったのだという。
 マルクスが「資本論」で資本主義の腐敗を指摘して社会主義の良さを説き、レーニンがロシア革命で社会主義を実行に移したのだそうだ。 もともとの資本論から勉強している人にとっては、レーニン像が倒されることには複雑な思いがあるようだ。
 人の行き着く先は社会主義だという人がいたが、本当にそうだろうか。人がみんな神様のようになればそうなるかもしれないという理想の社会だと思う。人間は所詮動物なのだ。争いや競争心は無くならないと思う。弱肉強食という動物の世界は今でも人間のどこかに残っている。それが自然だと思う。人間は一動物であって、まだまだ神様にはなれない。それに、競争心がなければ張り合いや向上心も出てこないのではないだろうか。まあ、何事もほどほどがよいが。
 中国談議の次はレーニン談議。いろいろなことを教わり、考え、旅は本当に勉強になる。

 

  2003年8月24日 ビシュケク〜カラコル 387km TOTAL 13,889km
 トクトグル湖

エメラルドグリーンの水を湛えたトクトグル湖 キルギスタンの首都ビシュケクからウズベキスタンの首都タシケントまでは、平原のハイウェイを走ると約580kmの距離である。しかしその道中にはにカザフスタンの領土が張り出しているため、カザフのビザを持っていなければ通れないことになる。カザフのトランジットビザを取って行くという方法もあったが、ここはあえて山の中を通りキルギスから直接ウズベキスタンへ入る道を選ぶことにした。
 このルート、距離は二倍になってしまうが、道中に3000メートル級の峠や大きな湖があって楽しめそう。暑い半砂漠の中で地平線と睨めっこしながら走ることに辟易していた身にはありがたい選択肢だ。

松尾さんの周りにはいつも人だかりができた ジョージとアレクサンドラに見送られつつ松尾さんと一緒に出発。松尾さんは「清晴」という名前のとおり強烈な晴れ男で、前方の空に立ちはだかった黒雲も真っ二つに割ってくれる。これは冗談のようだが本当の話。おかげで彼と一緒にいると頭上はいつも青空が広がってるのだった。
 それに人を引きつける力を持っているようで、彼が停まるとすぐに人だかりができる。ロシア語はほとんどできないにもかかわらず、現地人と身振り手振り、そしてごく簡単な英単語だけで会話し、驚くほど正確な情報を得ているのが驚き。二日間一緒に走っていて、還暦を目前に世界五大陸の旅を全うしようとする男のパワーにしばし圧倒された。

 トクトグル湖は絵に描いたような不思議な景色を醸し出していた。背後の黒雲と西日を受けて立体的に浮き出た山肌をバックにエメラルド色の水を湛えた湖。カメラで撮ってもまるで絵のような写真になってしまう。

ワインディングを走る

【みどり日記】

 蜂入りの蜂蜜

蜂蜜(ミョード)がペットボトルで売られている トクトグル湖への沿道では、蜂蜜が売られていた。看板を掲げ、使い古しのペットボトルに入って売られている。私たちは500mlのペットボトルで買ったが、100ソム(約300円)もとられた。後で聞くとこれは結構ボラれていたようで、実際はその半値くらいだそうだ。
 蜂まで混入した蜂蜜は、濃厚な甘さだ。

 シュクリさんのクバルティーラ

民宿のご一家 カラコルで宿探しをしていると、「うちの民宿においで」と誘う人が現れた。松尾さんと一緒、三人三台合わせて10ドルでいいという。後を着いていくと、敷地の中の建物に私たちの部屋を用意してくれた。家の人たちは近くにあるアパートに住んでいるそうだ。この敷地は、大家族共有の場所であるらしく、屋外に台所や食事をする場所が設けられていた。。
 私たちを勧誘してくれた人はシュクリさんといい、この家族の娘婿で両替屋をしているそうだ。なるほど一癖ありそうな顔つきをしている。私も初めは大丈夫かしらと不安に思った。ところが、お父さん、お母さんに息子、娘、孫達まで出てきて私たちを歓迎してくれた。食事付きではないのに、料理やスイカを振る舞ってくれる。ミーラさんの時のように、後で請求されるのではないかと懸念していたが、そんなこともなかった。
 翌日、松尾さんが近くの工場でマフラーを修理してもらったときも、ボラれるかもしれないからと心配して見に行ってくれた。おかげで半値で修理が出来たようだ。
 意外と良心的だったシュクリさんは、二児のパパでもある。生まれて三ヶ月になる娘は将来日本の学校へ行かせたいという。そして、男の子はヨーロッパの学校。いいお父さんであった。お礼の気持ちも含めて、シュクリさんにウズベキスタンのお金を両替してもらった。レートは悪かったが、この子達の将来のために寄付した気になろう。 

トクトグル湖

 

  2003年8月25日 カラコル〜ジャラルアバッド 210km TOTAL 14,409km
 複雑な国境線

キルギス領に住むウズベク系住民  トクトグル湖畔の、崖っぷちを縫うように走る道を抜けた後、水力発電用のダムを横目に平野部のフェルガナ盆地へ下りる。そのまま道なりに進むとオシュという町に行き当たるのだが、オシュとその周辺の国境地帯は民族紛争や住民の独立運動、それに伴うテロ活動が活発な地域と聞いていた。
 1990年にはキルギス人とウズベク人が土地の所有をめぐって衝突し、230人もの死者が出たという。そういえば昔、テレビのドキュメンタリー番組でも見たことがあるのだ、双方の農民が鉈や鎌を手にして対決。畑に死体がゴロゴロ転がる映像を見て、こんな恐ろしいところ絶対に行きたくないと思ったことがある。なので、ここはなるべく避けて通りたいところ。
 幸いなことにオシュより百数十キロ手前でウズベキスタン側の町、マナンガンの町へ向かってショートカットする道があった。そこを通ればオシュの町を経由せずに越境できるはず。
 マイナーな国境ゆえ入り口がハッキリしなかったが、人に訊きつつなんとか国境への道を見つける。農道のように見えるその道には数百メートル先に国境のゲートがあった。しかし、キルギス側は簡単なパスポートチェックのみで出国できたものの、ウズベキスタン側国境が閉鎖されていて呆気なく追い返されてしまった。
 「ここで越境できないとなるとオシュの方をまわるしかないか...」

 仕方なくオシュの町を経由して国境越えする事にしたのだが、地図を見るとその先から国境線がかなり複雑に入り組んでいた。かつてソ連時代に作られた道は両国独立後、国境線が度々道を横切る結果となり、道路が鉄柵で何カ所も寸断されていた。そのため、今その道を走っている僕たちは何度も何度も道を迂回させられることになる。
 オシュに近づくほど、雰囲気は変わり、すでにキルギスであってもキルギスではないような感じ。住民もイスラム教徒のウズベク人が多くなり、その多くが丸い帽子をかぶっている。そしてモスクからはコーランが聞こえだした。
 「今日オシュまで行くと日が暮れてしまうだろう」
 今夜は手前の町、ジャラルアバッドで宿に入る。さあ、明日はオシュを通ってウズベキスタンへ入国だ。

ここはキルギス領、後ろに見える湖はウズベキスタン領

【みどり日記】

 道の向こうはウズベキスタン

 オシュまで、国境沿いの道を走る。道の向こう側に広がる綿花畑は、もうウズベキスタンだという。オフ車だったらどこからでも入っていけそうだ。なのに近くて遠い異国だった。この辺りは紛争が激しかったところ。今、のんびりと木陰で昼寝などしている人々を見ると妙な気分になった。
 ウズベク人が多くなると、とたんに周りに漂う空気が濃くなったような感じがする。バイクを停めるとものすごく人が集まってきて取り囲まれてしまう。その人の勢いに圧倒された。

 夜中の三時頃目が覚めてから、なかなか寝付けなくなった。何だか息苦しい感じ。何か自分がやり残したこと、やれなかったことなどを後悔するような息苦しさだ。生きていく上では必ずいくつかの道の一つを選択していかなければならないのだが、果てはその選択されなかった別の道を見ることが出来なかった後悔にまで及んだ。でも考えてみれば私たちほど恵まれた人はあまりいない。あれもしたかった、これもしたかったと思うけれど、そんなことすらも出来なかった人たちがいるのだ。そこまで考えが及んでくると、「では、この辺りの争乱で亡くなった人たちはどうだったのだろうか。」と思うのだった。何一つやりたいことも出来ないまま亡くなっていった人たちの後悔の念が私にのしかかってきて息苦しくさせているように思えてきた。
 弘行も息苦しくて同じように寝付けなかったそうだ。やっぱり何かいるのかなぁ、この辺りは。そんなことを感じさせる国境の夜だった。

 


みどりの食卓

【左】ガンファン。ラグマンの麺がご飯に替わったもの。トマトと肉、野菜、香辛料のスープをかけてハーブを散らしてある。
【右】プロフ。炊き込みご飯。人参、豆などの野菜、肉と米を香辛料で炊きあげている。少し油っぽいので手やスプーンで油を切って食べる。プロフはウズベキスタンの方が有名でおいしい。

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