トルコ (1)

2003年10月12日〜10月15日 ドゥーバヤジット〜アヴァノス

   
イシャクパサ宮殿

  2003年10月12日 ドゥーバヤジット〜ワンの先20km 211km TOTAL 19,563km
  キャンプ生活再開

自転車でユーラシア大陸横断中の日本人青年 国境の町ドゥーバヤジットから南西に百数十キロ走りワン湖へ。その途中では自転車でアジア大陸を横断中の青年Fさんに会った。彼はもう一年も前に中国を出発して、ひたすら陸路を西へ西へと走ってきた。これまでも世界各地で、自転車による大陸横断をしている人によく会ってきたのだが、エンジン付きのバイクでも気が遠くなるような距離を人力だけで移動しているのだから凄い。

 ワン湖の畔には「CAMPING」と書かれた看板がたくさん立っていた。シーズンオフのためか、その多くが既に閉鎖されている。まだオープンしているキャンプ場を見つけて入ってみたところ、利用料が二人で10,000,000リラ(約850円)とのこと。みどりが「ホテルでも1000円くらいで泊まれるところがあるのにキャンプで850円は高いよぉ〜」と却下。
季節はずれのキャンプ場はだれもいなかった。 仕方なくブッシュキャンプを覚悟して湖畔のキャンプ地を探すが、適当なところが見つからず。試しに再び別なキャンプ場に入ってみたところ、管理人小屋に住んでいるという青年はタダでキャンプしていいよと言ってくれた。季節外れのためか客は僕たち二人だけ。
 青年は自分のことを「俺、トルコ人じゃないよ、クルド人だよ」と言い、更に「寒いので管理人小屋で寝てもオーケー、電気もキッチンも使っていいよ」と言ってくれた。お言葉はありがたかったが、湖畔の景色が綺麗だったので湖の側にテントを張らせてもらう。テントを張り終えた頃、ポット入りのお茶まで持ってきてくれた。
 彼はクルド人として生まれ、今までどんな生い立ちをしてきたのだろう。いろいろ聞きたかったのだが、青年は英語がほとんど出来なかったため話が聞けず残念。

 【みどり日記】

 イシャクパサ宮殿

イシャクパサ宮殿 夕べはドゥーバヤジットの町で、トルコのロードマップを仕入れた。地図には歴史的見所にマークが付いている。トルコ全土にわたってものすごい数があり、とても見切れそうになかった。今後のルート取りについて検討するため、ホテルの人にもトルコのお薦めの場所を教えてもらうことにした。それがまた多くて、とても的が絞りきれない。
 ホテルの人は、このドゥーバヤジットの町にも是非行って欲しい見所があると言ってパンフレットを見せてくれた。タタブースのように、町から60キロも離れた見所だったらやめようと思ったのだけれど、たった7キロ先の山の上だという。せっかくなので行ってみることにした。
ピクニックにやってきた家族連れ そのイシャクパサ宮殿は険しい崖の上にひっそりとたたずんでいて、本当に素晴らしかった。色といい雰囲気といい、周りの山々にマッチしていて何と美しいことか。その奥には公園があり、たくさんの家族連れがピクニックに訪れていた。
 国境の町ドゥーバヤジットはノアの箱船伝説のアララト山も近くにそびえる、意外な見所の地であった。

 

  2003年10月13日 ワンの先20km〜ホチャキー (Kocakoy) 370km TOTAL 19,933km
 もうすぐヨーロッパ

ノアの方舟伝説に出てくるララット山 国境地帯から西へ進み、都市部に入ったら一気に近代化した。まず、ガソリンスタンドでクレジットカードが使える事にえらく感動する。町にはトヨタやホンダのディーラーが軒を連ね、バイク屋には日本製の1000ccクラスのスポーツバイクが並んでいる。スーパーマーケットに入ると、食品や日用雑貨が日本のように豊富な品揃えがあり、レジにはバーコードリーダー付きのレジスターが備えてあった。
 日本では当たり前の光景なのだが、四ヶ月間旅したロシア〜中央アジアの生活環境があまりにも前近代的だったので、そのひとつひとつにえらく感動してしまう。

 しかし、その便利さとは引き替えに物価がかなり高くなり、財布からはすごい勢いでお金が出て行くようになった。特にガソリン代が高いのには閉口もので、リッターあたり150円くらいかかる。ガソリン代が日本より高いなんて、経済危機前のアルゼンチンやブラジル以来だ。イランなら20リッターのタンクを満タンにできるお金を出しても、ここでは1リッター程度しか入れられず、バイク二台満タンにすると軽く5000円が飛んでゆく。

トルコから急激に近代化して物も豊富になる。

 クルド人の村

 ここから100km南は混乱最中のイラク国境だ。武装勢力や難民が越境してくるのを警戒しているのだろうか、道沿いに八輪駆動の装甲車があちらこちらに配備され、タコ壺では鉄兜をかぶった兵士がマシンガンを構えている。
 あるところでは警備が更に厳しくなり、我々のパスポートチェックはもちろん、通りかかるトラックも荷台の中身をチェックされたりしている。途中立ち寄った村は掘っ建て小屋のような貧相な家ばかり。小さな商店のオヤジさんに道を訊くついでに話を聞いたのだが、やはりこの辺りはクルド人の村らしい。

 クルド人とはシリア、イラク、イラン、トルコの国境付近に分散して住んでいる、独自の国家を持たない少数民族である。一昔前まで遊牧生活を送っていたため、国家という概念を持っていなかった事が自らの国を持てなかった原因とされている。しかし近年は自分たちの国を持とうという事で、各国で独立を訴えたデモや蜂起が起こっているが、その度に各国の軍隊に鎮圧されてきた。

 クルド人の歴史は迫害と離散の歴史とも言われ、居住しているところが国境地帯であるためイランイラク戦争の時などは居住地が戦場となったほか、湾岸戦争の時などは100万人にも及ぶクルド人が難民化した。隣国同士の戦争にはいつも利用され、欺かれ、そして捨てられた。イラク北部には、かつてのフセイン政権時代に起きた毒ガス攻撃による大虐殺で有名なハラブジャの町もあるが、そこもクルド人の村だった。

 このように何か戦争が起こる度に被害者になってしまうクルド人。そういえばこの旅の出発前にもテレビでクルド人の窮状を見たっけ。アメリカのイラク攻撃が近づいた頃、イラク北部に住むクルド人が戦火をのがれるためトルコへ亡命してきたのである。しかし、トルコ政府は彼らをバスに乗せてイラクへ送り返すという非人道的な措置をとっていた。
 ブラウン管に映っていたクルド人は涙ながらに、
「イラクには狂人サダムフセインがいるんだぜ、あんな国に返されたら俺たち殺されちまうよ!」
と言っていたのを思い出す。そんなものだから、各国にいるクルド人はトルコ政府に対してかなり憤慨しているようだ。
 偶然ながらこの日記を書いている日に、イラクのトルコ大使館前で自爆テロが起こった。やはり犯行はクルド人勢力とのこと。

 普段日本に住んでいるときは国家というものをほとんど意識しないが、彼らを見ていると、「自分の国」、「帰るところ」があるってのは実にありがたく尊いことなんだと思い知らされる。今こうしてのんきに海外ツーリングしていられるのも日本という国がしっかり存在してくれているおかげだろう。
 「日々働き日本社会を支えてくれている皆さんに感謝!」

 今日走ってきた道はどこを見渡しても畑ばかり。遺跡の近くでキャンプしようとしたのだが、その遺跡が見つからず、結局丘の陰で野宿することになった。
 野宿地を見つけテントを張り終えた頃、陽はとっくに暮れて辺りは闇に包まれてしまった。ヘッドランプの明かりを頼りにご飯を炊き、トルクメニスタンで会った日本人ツアー客のおばさんにもらった「ふりかけ」と「じゃこの佃煮」をかけて食べる。
 「たかがふりかけご飯とはいえ、日本の味が身にしみるなぁ。」 

どこまで走っても丘陵地帯ばかり続く。

 【みどり日記】

 トルコの印象

 トルコに入ってまず思ったのが、「トルコ人って何だか一癖ありそうな顔をしているなぁ。」ということだった。しつこい物売りや、お金をせびる者も多い。大人だけじゃなく子供もだ。自転車で旅をしているFさんは、子供に石を投げられたと言っていた。今まで旅をしてきた国の子供達は、バイクを見て嬉しそうに手を振ってくれた。なのにトルコの子供達ときたら、茶々を入れたり、やじったりするために駆け寄ってくるのだ。
 大人は大人で、自分の言いたいことだけ言って、ハイさよなら、という感じの人が多い。「トルコはどうだい。いい国だろう。」と、自分から話しかけておきながら、こっちの言うことなんかまるで聞いちゃいない。一方的で、会話にならない。とにかくトルコはいい国だと言わせたかっただけなのか? どうもトルコ人は、こういう勝手なところがあると思った。

 周りの風景は、波打つように広大な丘陵地帯になった。地形がイランとは明らかに違う。今まで見てきた国々とも違う。何もない荒野は圧倒されるような景色だった。
 自然が厳しいためか、トルコは棘のある植物が多い。結構堅い棘なので、下手に道を外れて走るとパンクが心配だ。自転車ならば、やられてしまうことだろう。
 外敵が多かったこの地の人々も、身を守るため棘をまとうようになったのかな? 

 さて、これからこの広いアナトリア台地を西に進むにつれ、トルコの印象はどのように変わっていくだろう。

 

  2003年10月14日〜15日 ホチャキー (Kocakoy)〜マラツィヤ (Malatya)〜アヴァノス 292km+375km TOTAL 20,600km
   百年の時差がある国

湖のほとりで自炊する トルコに入ってからは食費も高くなり、ちょっとした食堂で食事すると二人で1000円以上、時には2000円もかかってしまう。そんなものだから泊まりは昨晩のようにブッシュキャンプ、食事は自炊して節約することが多くなった。
 今日も朝からご飯を炊き、生卵と醤油をかけて食べる。食事が終わった頃、この辺一帯で羊を飼っているというおじさんが遊牧にやってきて、近くの畑でとれたスイカや野菜を袋いっぱいくれた。
 昼食時もあまりにも気持ちがいい天気なので、ハザル湖を一望する丘の上でスパゲッティを茹でる。ソースは朝もらった野菜の中から茄子とピーマン、そしてトマトでみどりに作ってもらった。

周りの景色にミスマッチな高層マンション。 高層マンションの谷間にモスクが建つ

 トルコは旧いものと近代的なもの、アジア的なものとヨーロッパ的なものが混在する不思議なところ。日干し煉瓦と泥で作った家々の建つ村もあれば、荒野の中に立派な高層マンションの林立する都市が出現したりする。大きなスーパーマーケットもあるけど、露天で野菜や果物を売る市場も健在だ。道路も欧州や日本の新車が走るハイウェイからロバが荷車を曳いている砂利道まであって、一日の中で百年の時差を感じることがしばしば。

都市部のモスクは夜になるとライトアップされる。 国民の99%がイスラム教徒で、町には必ずといっていいほどモスクを見かける。トルコのモスクは細くて高い尖塔(ミナレット)が一〜二本、又は四本建っているのが特徴で、遠くからでもすぐに発見することができた。それらからは毎日五回、礼拝の呼びかけであるアザーンの声が聞こえてくる。昔はミナレットの上から生の声で呼びかけていたそうだが、現在はほとんどスピーカーで放送されている。お経のような声が朝の五時頃から大音響で流れてくるので、モスクの近くに泊まると早起きすることができた。
 

 【みどり日記】

 トルコ観光

 マラティアの街でやっと満足なインターネットカフェに巡り会えたので、トルコの情報を仕入れることにした。イランでは、事前知識がなかったため見所を逃してしまい、あとで悔しい思いをした。今度はそんなことがないように名所くらいは押さえておこう。
 そこでわかったことは、「トルコは見所が多いので、とても一回では見切れない。」ということだった。主要なものに絞ったとしても一ヶ月程度じゃ足りないのだ。
 ヒッタイト、ビザンティン、オスマン帝国などさまざまな民族が国を造り、さらにギリシャ、ローマ、ペルシャ、モンゴルなどが支配した時代もある。それらは独自の文化文明を創り上げ、世界遺産にも指定されるような素晴らしい遺跡を数多く残している。
 東から西へ走ると、トルコの大地はとても広い。今回はバイク旅ということもあって移動に時間がかかるので、見所は泣く泣く数カ所にしぼることにした。すでに見ているアララト山のドゥーバヤジットのほかは、奇岩群のカッパドキア、古都のコンヤ、石灰棚のパムッカレ、エーゲ海の古代遺跡エフェソス(エフェス)、伝説の都市遺跡トロイヤ(トロイ)、そしてイスタンブール。これが今回選んだ観光コースである。

道路脇の高台でブッシュキャンプ

 トルコ料理がフランス料理、中国料理と並ぶ世界三大料理だということもインターネットで知った。そういえば、トルコに入ってから急に料理らしい料理が出てくるようになったと思っていた。イランなどは、肉を切って焼くという程度で何ともバラエティーに乏しかったものだ。
 粘りけのあるアイスクリームやライスプディングも有名らしい。市販のアイスクリームがネバネバしていたので、薄気味悪いなぁと思っていたところだった。ライスプディングも休憩時に食していた。知らなくても意外と押さえどころは押さえていたようだ。

 山の斜面に張り付くように建つ家々、崖の上の城壁、モスクのある町並み。走っていると何でもない小さな町でもみんな見所のように見えてきた。名所を示す茶色い標識が出てくるたびに、すべて見てみたい衝動に駆られる。それを我慢しながら通り過ぎるのだった。

みどりの食卓

【左】やっと料理らしくなってきたトルコの料理 ナスと挽肉、鶏肉とピーマンのトマトソース煮とサラダ
【右】ライスプディング カラメルを焦がした上の膜はプリン風だけれど、下は甘いミルクがゆといった感じだった。  

 

【中央】牛肉をサイコロ切りしてバターで炒めたもの。まろやかな味だった。同じような素材を使っても、国によってこんなにおいしい料理になるんだなぁと感心した。

 


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