イラ (2)

テヘラン〜タブリーズ〜マークー

   
修復中の「ソルタニエン・ドーム」モスク(左)と
山の中にひっそりと建つ「タタブース」キリスト教会(右)

  2003年10月6日 テヘラン〜ザンジャン 343km TOTAL 18,479km
  イラン人の家庭に泊まる

 テヘランから西へ向かう道は一般道の他に立派な有料ハイウェイが延びていた。100km位の間隔で料金所ゲートがあるけど、バイクは無料でゲートの脇をすり抜けて行くことができる。
 乾燥した景色の中を一日じゅう走り夕方ザンジャンの町に到着。この町はホテルがどこも高く、数件まわってみたものの一番安いところで一泊US$30近くした。ここはイランにしてはやたらホテルが高い町のようだ。
 「たかが一晩とまるだけでそんなに浪費したくないので町はずれでブッシュキャンプすることにしようか」
 ホテルどまりはあきらめ、野宿用の水と食料を買っているときに、若い女性二人が乗った車がやってきた。ホテル探しの時にも道を教えてくれた人たちだ。彼女たちは携帯電話で別なホテルに問い合わせてくれたようで、一泊US$10〜US$15で泊まれる安宿を見つけてくれたという。そのホテルへ車で先導してくれるというのでついて行くと、途中で電器屋の前で止まった。そこは彼女たちのお父さんのお店らしい。お父さんは出張中で不在だったが、お茶を飲んでいってというお言葉に甘え、お店の中でお茶をいただいた。
 お茶をもらいながら話をしているのは良いが、陽はとっくに暮れ夜の帳が下り始める。いいかげん今日の寝ぐらの方が心配になってきた頃、携帯電話でお父さんと思われる人と話していた姉のほうが、突然「家に招待してあげる」というありがたい言葉をくれた。

日本の居間より広い台所。 ついていった先が部屋数10以上もある凄い豪邸で、庭には噴水やプールまでついていた。家族はお父さんとお母さん、そして車に乗っていた26歳と16歳の娘の他、もうひとり16歳の双子の女の子が住んでいる。家に着くなりチャドルを脱ぎ捨てた娘たちはみんな美人で、毎日チャドル姿の女性しか見ていなかった目には眩しすぎる光景だ。ご存じ、イランの女性は外では真っ黒いチャドルを着て髪の毛や肌の露出を最小限にして歩いているのだが、家の中では赤やピンク色のノースリーブや胸がV字に大きく開いたような刺激的な服を着、ショートパンツや短いスカートを履いていることがわかった。男一人で旅行していたら絶対にこんな家に泊めてはくれなかっただろう。夫婦でツーリングしていてよかった。

 夜遅くなって一家のお父さんが出張先から帰ってきた。彼は骨董品を集めるのが趣味で、家の中に飾ってある調度品を見せては「これは何世紀のもの、あれは何年前のもの」と説明してくれる。家具一つ一つにもこだわりがあり、材料はすべて無垢の木製。10脚以上ある椅子は全部手彫りの彫刻が施されていた。家電品店を営んでいるだけあって、数百チャンネル映る衛星テレビをはじめ、冷蔵庫が4台、電子レンジ2台、その他見たこともないような電気調理器具など家電製品が日本以上に揃っていた。
 お客さんなんだから遠慮はいらないよと、豪勢な食事を振る舞われ夜遅くまで話が続く。一家は保守的なイスラム教徒の多いイランにしては、かなりくだけた考え方をもっているようで、イランという国や自分たちを取り巻く状況を客観的に見ているように感じた。お金持ちだから偉いと言っているわけではないが、事業に成功するような人は世界を見渡せる目で、物事を客観視できる人だと思う。

ソルタニエン・ドーム内壁のモチーフ 400年前のモスク

 【みどり日記】

 一国一家庭

 テヘランを出てイランの旅も終わりに近づいてきたので、どこかで普通のお宅にもおじゃまできたらいいねぇ、などと弘行と話をしていた。虫のいい話ではあるが、一般家庭におじゃまするとその国のことがさらによくわかるので、一カ国に一軒くらいは泊めてもらえると有り難いなぁというわけである。
 そんな話が聞こえたかのように、素敵な出会いが待ち受けていた。ホテル探しのために立ち止まっていると、お姉さんの運転する車に乗ったシャブナムという16歳の少女が「何かお手伝いしましょうか。」と英語で声をかけてきた。話をしているうちにやがて周りは例のごとく黒山の人だかり。みんなでホテルはあっちだこっちだと言い始めるのだが、安いホテルはなさそうだった。彼女も心配そうに見ていたけれど、安ホテルは知らないようだった。
 その人だかりを逃れるように出て買い物をしていたところ、シャブナムがまたも私たちを見つけてやって来てくれた。そして最終的には彼女の家に泊めてもらえることになったのだ。
 実は私もチャドルを脱いだイラン女性の生活を見てみたかったので、美人三姉妹の家に泊めていただけるとは、大変嬉しいことだった。
 さらに、今まで疑問だったイランに関するいろいろなことについて教えてもらうことができたし、家庭料理を味わうこともできた。
 その国を知るにはやっぱり「家庭訪問」が一番である。

  

  2003年10月7日 ザンジャン 88km TOTAL 18,567km

 ソルタニエン・ドーム

ソルタニエン・ドーム(モスク) 予定では今日この町を出ることにしていたのだが、バテニーさんが「もう一泊していっていいからもっとこの町で観光していきなさい。」と言ってくれた。彼の一押しが町から東へ40kmほど行ったところにある「ソルタニエン・ドーム」という古いモスクである。
 朝、早速バイクに跨ってそこを目指した。この建物、14世紀にチンギスハーンの孫のスルタン・モハメッドという人が建てたのだが、煉瓦造りの建物としては世界一高いそうだ。壁が部分的に落ちているものの、700年もの長い間、ほとんど原型をとどめたまま建っていた。今は残されたオリジナル部分を元に、崩れ落ちた部分を忠実に再現する作業が進められている。

オイル交換屋 ソルタニエンの町でオイル交換して帰ってきた頃はもう夕方。バテニーさんの家ではまたしても美味しいご馳走を振る舞われ、贅沢な時間を過ごさせてもらう。

 【みどり日記】

 イランの家庭料理

豪勢な朝食 イラン家庭の朝食は、パンにチーズ、バター、それと紅茶というのが一般的らしい。チーズはクリームチーズだった。バテニー家では、自家製のジャムや蜂の巣ごと採取した蜂蜜なども出してくれた。

 夕食には奥様の手料理が振る舞われた。プローと言われる炊き込みご飯と、イラン風スープ、それにサラダ、ヨーグルトなどである。イランでは昼食と夕食にヨーグルトを食べるらしい。
 イラン風スープは、トマトペーストとスープの素を入れて作る。ポテト、人参などの野菜と、スパゲッティーが入っていた。米などの穀物を入れる場合もある。
 サラダは、トマト、キュウリ(皮をむく)、紫タマネギなどがサイコロ大に切られて彩りよく飾られていた。マヨネーズはお姉さんゴルリズさんのお手製。
 プローについては、作り方を教わった。

 <プロー(イラン風炊き込みご飯)の作り方>

プロー(イランのピラフ)1 フライパンに薄くオイルを塗る。
2 みじん切りのタマネギを炒め、牛挽肉、サヤエンドウを炒める。
3 塩、コショウ、シナモン、カレーパウダーを加えて味付けをする。
4 炊飯器に、イラン米一カップ当たり、水1.5カップ、油スプーン1〜1.5杯、それと1〜3で作った具を入れて焚く。

 

 

  2003年10月8日〜9日 ザンジャン〜タブリーズ 298km+0km TOTAL 18,865km
 イランの郵便局

 郵便の送料が安いイランからは、不要になった中央アジアのガイドブックや地図、ロシア語辞典などを日本に送り返した。イランの郵便局は、専用の段ボール箱が用意してあって、送る中身だけもって行けば梱包までやってくれるので簡単。国際郵便の受付は税関の関係で午後の早い時間で受付が終わってしまうが、時間が多少過ぎていたにも関わらず特別に受け付けてくれた。
 イランでは、公共の場で働いている者はほとんど男ばかりなのだが、みな実に紳士的でサービス精神が旺盛だ。これがロシアだったら、受付のおばさんに、「ニエット!また明日来い」と言われたところだろう。
 ちなみに日本までの郵便料金は船便で5kg送り約2,000円。ウズベキスタンでお土産にもらった装飾用のナイフは美術品扱いになるため送れず。

夕日に染まるタブリーズの住宅街

 

 【みどり日記】

 ハンドメイドの宝石入れ

 2日間お世話になったバテニー家を後にする。ゴルリズは宝石入れを私にプレゼントしてくれた。イラン風の美しいデザインはハンドメイドだという。お世話になったうえ、こんなに素敵なものまでいただけるとは。私が持っている日本のプレゼントといったら、折り紙と絵葉書と切手くらいしかない。ゴルリズに好きな切手を選んでもらったところ、皇太子ご夫妻の結婚記念切手を指差していた。さすがお嬢さん、お目が高い。「日本のプリンスとプリンセスだよ。」と言って差し上げるととても喜んでくれて、裏に名前を控えていた。

 タブリーズ観光

ブルーモスク 私たちは日程の関係でイラン北部を走っただけだったけれど。イランには他にも見所がたくさんあったようだ。特にエスファハンやシーラーズという都市は有名で、知らずに通り過ぎてしまったことをとても後悔した。
 最後の大都市であるタブリーズも実はイランの中でも見所だったらしい。バザールと、ブルーモスク、博物館などがある。バザールの入り口あたりにツーリストインフォメーションがあるので、そこで無料の地図や情報をもらってから観光するといい。
古くからあるバザール(市場) ここのオールドバザールは特に有名で、世界一広いバザールだという。屋根つきの狭い路地の中は、びっちりと店が詰まっていて熱気ムンムン。スカーフや絨毯、貴金属、そして日常品など何でも売られていた。明日金曜日は休日のため、前日の今日は早く閉める店が多くて少し残念だった。
 ブルーモスクの外観は名前と違って青くはなかった。昔は青かったらしいが、長い年月を経て剥がれ落ちてしまったようだ。今は修復中。再現された青はオリジナルのような味わいには欠けていた。モスクや教会といった場所は、宗教心のない私たちでも落ち着く場所だなぁと感じた。

 イランのトイレ

ブルーモスクの内壁に貼り付けてあるタイル ツーリストインフォメーションの場所を探していると、近くのお店の人が親切に教えてくれたうえ、お茶までご馳走してくれた。そこは水道設備屋さんで、イラン式トイレに使うような水道も売っていた。
 イランに来てまず思ったのが、「トイレに便器がある。」ということだ。ロシアや中央アジアの田舎は穴が空いているだけだったので、画期的な進歩だ。イラン式は洋式トイレとは違い、どちらかというと日本式のようにしゃがむタイプの便器。そして必ず水道とホースまたは水入れが置いてあった。イスラムでは左手が不浄の手なので、ホースを右手に持って左手でおしりを水で流すという使い方をするようだ。ウォシュレットでもわかるように水でおしりを流すのはなかなか気持ちがいいそうだけれど、最後までまねをすることはできなかった。

 

  2003年10月10日 タブリーズ〜マークー 289km TOTAL 19,154km
 むち打ちの刑

日本に住んでいたことのあるイラン人が昼食をご馳走してくれた。 ブランチに立ち寄ったレストランでは、そのレストランのオーナーと名乗るイラン人が突然流暢な日本語で話しかけてきた。彼は十年以上日本に住んでいた経験があり、以前は日本人の奥さんもいたそうだ。今は事情があってイランで独りで住んでいるのだが、日本で稼いだお金でテヘランや地方都市の各地に不動産を購入し、今はその家賃収入で日々遊んで暮らしているという。彼からは興味深い話を聞かせてもらった上、「あなた方は私のお客さんです」といって食事代まで全て出してもらった。

 興味深い話というのは、日本へ持ち込んだペルシャ絨毯をヤクザに売って車を買った話をはじめ、イランで酒を飲む話、その他ここでは書けない裏世界の話などいろいろ。
 それから、この国でひとつ疑問だった「女性の被りもの」について、なぜあれほどまで徹底しているのか聞いたところ、やはり被らなければむち打ちの刑になるらしい。最近は前髪を少し出すようなかぶり方をしている人も多いが、十年くらい前までは髪の毛一本出ていても投獄されむち打ちの刑になっていたそうだ。
 彼も別な罪でむち打ちの刑になったことがあるのだが、電気のコードを三本束ねたようなもので力一杯70回くらい叩かれたそうだ。それが悲鳴を上げるほど痛かったらしい。

 アゼルバイジャン山の谷間に隠れるようにキリスト教会が建っていた。国境

 トルコ国境へ真っ直ぐ進む道を外れ進路を北に変更、アゼルバイジャンとの国境地帯を通る道を走ることにした。道は川に沿って続いているのだが、途中で道路がバリケードで塞がれており、軍のパスポートチェックを受ける。よく見たら川の向こうに鉄柵が張りめぐらせてあった。地図を見ると川の向こうはアゼルバイジャン領だ。この国境を隔てる川、水深はかなりありそうだが流れはそれほど速くない。幅も20メートルくらいしかないので、ちょっと泳げば越境できる大きさだ。かの国もソ連崩壊後ナゴルノカラバフの領有権をめぐって隣国アルメニアとドンパチやっていた地域。当時は難民が渡ってきても不思議ではなかったのだろう。

川の向こうはアゼルバイジャンだ。 国境沿いの未舗装路を走ること20キロ、再び警察の建物があり検問を受ける。ここでは、我々が日本から走ってきたことを知った若い警官が、「お茶でも飲んで行って」と言ってポット入りのお茶を持ってきてくれた。更には絨毯まで敷いてくれて背中を伸ばすことができた。いやぁ、ほんとイランの警官ってとっても親切。もし自分がイランの隣国で難民になったとしたら、迷わずイランへ逃げ込むだろう。

 【みどり日記】

 すぐ近くの異国  

地平線の向こうにアララット山が見え隠れした。 できたら今日、国境を越えたいと思っていつもよりも早く出発したのだが、結局間に合わなかった。おもしろい人と出会って話を聞いたり、成り行きで古い教会を観光してしまったり。さらにはメインルートを外れ、アゼルバイジャンとの国境地帯などもを走ったりするものだから、久しぶりのダートでさらに時間がかかってしまった。でもそれなりにおもしろい体験ができた。行く予定がない国を垣間見るだけでもワクワクするものだ。
 遠くに富士山のような美しい形をした山が見えてきた。あれがノアの箱船伝説のアララト山か。アララト山というと、もうトルコである。イランに名残惜しさを感じながらも、気持ちはもう次の国を求めていた。 

 

  2003年10月11日 マークー〜ドーバヤジット 198km TOTAL 19,352km

 山奥のキリスト教会タタブースキリスト教会

 国境を越える前に、地元の人が一押しする見所の「タタブース・キリスト教会」を訪れる。しかし、町の近くだと思って行った先が、山の中を63kmも走ったところにあって、教会のまわりは荒涼とした大地に囲まれていた。
 さすがにこのあたりのキリスト教会は山奥に隠れるように建っているところが多いようで、イスラム教のモスクが町の中に堂々と建っているのとは対照的。
 教会の建物は、かつて白と黒に色分けされていたという石造り。壁面に繊細なモチーフが彫られていて、建物すべてが芸術品のよう。
キリスト教会にやって来たイラン人女性 教会にはキリスト教徒だろうか、スカーフを半被りにした人や、すでに頭の被り物を脱ぎ捨てたイラン人女性が歩いていた。キリスト教会の中ではイスラムの戒律など関係ないといったところか。 

 

 

 

 【みどり日記】


 トルコへ国境越え

獅子の彫刻 朝一で国境へ行くつもりが、宿を案内してくれたオヤジの強い薦めを振り切れず、予定外の教会観光をすることになった。タタブースはまあまあよかったけれど、国境越えは午後になってしまった。
 国境の町バザルガンに到着。目の前には、富士山のように美しい形をして雪を頂いたアララト山がそびえている。まるで山梨か静岡にでもいるような気分になった。
 国境越えの鉄則をふまえ、事前に食事とガソリンの補給をした。国境レートは悪いけれど、僅かのトルコリラも用意した。これは替えておいて正解。トルコ国境のトイレが有料で、トルコリラで請求されたからだ。持っていなければ、トイレにも入れないところだった。

 イラン側の出国は、カルネによってバイクの続きをし、イミグレで出国スタンプを押してもらうだけ。それなのに待たされてばかりで何とも時間がかかった。弘行は「一人でやらないで、もっと職員を増やせばいいのに。」と言って苛ついている。どうして国境というところは、どこもこう要領が悪いんだろう。

建物全体が彫刻の芸術品 両国間のそれぞれのゲートを一度に開けてもらって、やっとトルコ側へ。ああ、これでもうスカーフを被らなくていいんだ。せいせいする気持ちとともに、ちょっと物足りないような寂しさも感じた。これはイランを去る寂しさかな。周りの女性旅行者は、歓声を上げてスカーフを脱ぎ捨てていた。
 トルコ側ではまず1枚の紙を作成してもらい、その欄がスタンプやサインですべて埋まるまであちこちの部署へ行かされた。次はどこへ行くのかなと思っていると、いつの間にか現れたおじいさんが私たち専属の案内をしてくれた。どうも国境の役人とは思えない。でもまあいいか。おじいさんの案内どおりに各部署で手続きを済ませ、やっと終了。実はこのおじいさん、両替屋だったらしい。しょうがないからUS$50ほど両替してあげた。国境地帯を自由にウロチョロさせてもらえるなんて、なかなか大した商売人だ。
 サインやスタンプで一杯になった紙を提出して、国境ゲートを抜けたらもう5時半。トータル3時間以上もかかってしまった。トルコに入ってもその日は何もできないまま日は暮れていった。

 

みどりの食卓

【左】ライス イラン米は細長くて香りが強い。塩を入れて炊くため、意外と甘みが感じられておいしい。バターを載せて食べる。
【右
バルク 串刺しの焼肉。骨がない牛又は羊肉を串に巻いて焼く。串焼肉には他に、ミンチ肉を串に巻きつけたカバブ、骨付きブロック肉を刺したシシリクなどがある。

左】アブグシュト トマト、豆、肉などが煮込まれたスープをちぎったパンにかけて食べる。スダチ汁をかけるとさっぱりとしてまたいい味になる。これをグチャグチャと潰してこねるようにかき混ぜて食べる方法もあるけれど、そうやるとどうもおいしそうに感じられない。こねたものをパンで巻いてツナロールサンド風にして食べる人もいる。。
【右】ケイメ 
フライドポテト、豆、肉などが入ったトマト味系の料理。スープ状だけれど、オイルが上に浮いているほどとても油っこい。

 


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