ロシア (5)

キャフタ〜イルクーツク〜ノボシビルスク


バイカル湖(オリホン島)

  2003年7月16日 国境の78km手前〜ウランウデ 297km TOTAL 6,955km

 モンゴルからロシアへ越境

 モンゴル側の出国はほとんど問題なし。去り際、モンゴルを振り返り「バイラルラ」(ありがとう)と言って大きく手を振った。そしてロシア側へ。ゲートの前まで進んだら、警備兵が、
 「これからみんな昼食をとるからから二時まで待ってくれ」
 と言ってゲートを閉めてしまった。なんと、ロシア側の国境業務が昼休みに入ってしまったのだ。その時点でまだ12時前なのだが、通過するトラックで込み合っていたため早めに閉じることになったらしい。
 モンゴルは出国したが、ロシア側国境の手前で足止め。結局両国の中間地帯で二時間以上も待たされる羽目になった。しかもそこが炎天下の日陰もない場所だったので暑かったこと! この二時間、水で濡らしたタオルを頭にかぶりながら、特にすることもないのでバイクを磨いたりパンをかじったり...。

 2時になってやっと国境が再開。税関ブースには三週間前通ったときにもお世話になった女性係官がいた。
そして彼女は、「暑かったでしょ」と言ってジュースを水筒いっぱいになみなみと注いでくれた。係官や警察が賄賂をせびってくる中米の国とはまるで違うなぁ。

【みどり日記】

 さよならモンゴル

ロシア国境をバックにモンゴル側の国境役人と モンゴルの旅は本当に楽しかった。想い出を胸に国境の町へ。
 売店で、余っているトゥグルグを使い切るため買い物をした。
「Marsのチョコレート10個!」と言うと、おばさんは口をあんぐり開けてビックリしている。その顔が何ともおかしかった。こんな買い方をするお客はあまりいないのだろう。小さな売店の在庫全部を買い占めてしまうほど、私たち二人はチョコレートが大好きである。
 「さよならモンゴル。」とモンゴル側の国境を名残惜しげに通過したのはいいが、「こんにちはロシア」と言いながらゲートを入ろうとしたら追い返されてしまった。昼休みのため国境の手前で2時間も足止め。その間、話し相手をしてくれたのはモンゴルの係官たちだった。もう一度ゲートの中の日陰に入れてくれたり、係官の帽子を借りて一緒に写真を撮らせてもらったり。だいたい国境で写真なんか撮らせていいのかしら?何とものんびりとした国境である。

 こんにちはロシア

 税関ではバイクの一時輸入許可証を作成してもらった。パソコンによりその場で書類が出来上がるのはいいが、作成している係官は、キーを探しながら指一本で叩いている。私が替わって打ってあげたいくらいだった。
 時間がかかりそうなので、待っている間に自分の荷物の重さを計ってみることにした。出発前に計量しておかなかったので、一度どこかで計りたいと思っていた。係官は快く計量器を貸してくれ、笑いながら「ミドリ、何キロあった?」と言って興味を示していた。大小含めたバッグすべてで40キロ強。思ったよりも軽かったが、まだまだ重い。弘行の話によると、30キロくらいが負担もかからず走るにも楽な重さだそうだ。
 お昼休みの2時間を含めると、計5時間ほどで国境通過は終了した。ロシアの子供達は、相変わらず「これいくら?」と言ってバイクに寄ってくる。こんな日々がまた始まった。 

 

  2003年7月17日〜18日 ウランウデ〜イルクーツク 483km+0km TOTAL 7,435km

 バイカル湖

 ウランウデからイルクーツクまでの道はすべて舗装で快適そのもの。道はやがてバイカル湖の南岸にさしかかり、右側に青いバイカル湖が見え隠れした。時々、飛沫をあげて流れる渓流がバイカル湖に注ぎ込んでいるのが見える。
 このあたりの沿道ではバイカル湖で獲れた魚が半薫製に加工されて売られていた。これがなかなか旨くておやつ代わりに何匹でもいける。
 夕刻イルクーツクの街に到着。イルクーツクはホテルがどこも高く、安宿を探すにかなり手こずった。終いには雨にも降られ全身ずぶぬれ。濡れネズミになりながらもタクシーに先導させたりして、なんとか安い宿を探し当てる。

【みどり日記】

 バイカル湖でオームリの焼き魚を食べる
 
 バイカル湖が近づいた辺りから、道ばたで苺や魚を売る人々を多く見かけるようになった。
 焼き魚が一匹10ルーブル(約40円)と安いうえにとてもおいしい。バイカル湖だけで釣れるというこの白身の魚は、オームリという。

 イルクーツクで宿探し(スカイケンジさん松尾さんと再会)

 イルクーツクにはまだ明るい時間帯の夕方8時頃到着したが、宿探しに4時間もかかってしまった。
 街の人に教えてもらった「ホテルアンガラ」と「インツーリストホテル」は、2,000〜4,000ルーブルと私たちにとっては高い値段だった。雨の中、当てもなく安宿探しに街中をさまよう。イルクーツクの街は一方通行が多く、行きたい方向へもなかなかたどり着けない。
 沿道を歩く女性に尋ねると、別の宿を紹介してくれた。途中で道に迷ったので若者達に尋ねると、わざわざ車で案内までしてくれた。たどり着いた宿ガルニャックでは、なんと松尾さん、スカイケンジさんと再会。彼らは宿の人と料金の件でもめているところだった。私たちも「ニェット。(無いよ)」と冷たく断られた。ずぶぬれで惨めな私たち。辺りも暗くなりかけてきた。受付のおばちゃんは相手にしてくれないので、男の従業員に助けを求めてみた。「私、今晩泊まるところがなくて困っているの。」と哀れみを誘うように言ってみる。こういうとき、女性の私が言った方が効果がある。近くの宿を一軒紹介してくれた。だが、そこも「ニェット。」。さらにもう一軒、今度はちゃんと電話で確認もとって紹介してくれた。おじさん、ありがとう!
 その宿アガトまではタクシーをつかまえて案内をしてもらったのだが、弱みにつけ込んでぼったくられそうになった。半値以下に値切って帰ってもらう。やっと宿に落ち着いて時計を見ると、夜の12時近くになっていた。街の人は親切だったけれども、何とも疲れる街だ。

 演技力の松尾さん

 18日、朝から雨も降っているし、連泊して昨日の疲れをとることにした。のんびりテレビなど見ていると、外で何やら話し声が。何気なく出てみたら、松尾さんとスカイケンジさんが来ていた。松尾さんは結局もめていた宿を出てきてしまったらしい。そして今日は同じ宿に泊まることになった。スカイケンジさんは、今日の列車でモスクワへ行くという。
 夜、松尾さんと夕食を囲みながら遅くまでいろいろな話をした。松尾さんはすでに世界一周を達成していて、60歳になるベテランライダーだ。英語が話せないそうだが、それでどうやって旅をしてきたのだろうと疑問に思ってきた。話をしてみて、そのパワーに驚いた。彼ならばできないことも可能にしていまいそうな、そんな人だった。言葉の変わりにその演技力はすばらしいものがある。パントマイムのようで、これならば言葉はなくとも意志は通じるだろうと思われた。
 何はなくとも熱い思いがあれば夢はかなう。そんなことを感じさせる人であった。

 

  2003年7月 イルクーツク〜オリホン島 300km TOTAL 7,735km
 バイカル湖の島に渡る

 以前ロシアを横断したバイク仲間から、ロシアで一番よかった場所としてバイカル湖のオリホン島の話を聞いたことがあった。オリホン島とはイルクーツクからバイカル湖西岸を300kmほど北へ行ったところの少し沖にある島で、その大きさは幅が広いところで10数キロ、長さは約70キロほど。国立公園になっているため島の手前で入園料を払うのだが、島へは無料の艀で渡ることができる。島内にはキャンプ地が多くあり、ロシアでは夏にここでキャンプをするのがステータスらしい。島にはいると、やはりランドクルーザーなどの高級車でやってきたロシア人が、釣り竿やモーターボート、更には軽飛行機まで持ち込みアウトドアライフを満喫していた。夏のシベリアはどこも蚊がひどくてキャンプどころではなかったのだが、この辺りは不思議と蚊がいないようだ。

 艀乗り場

ビールをもらう 島への艀乗り場で船が来るのを待っていたとき、車に乗ったロシア人旅行者のグループがやってきた。ウクライナのキエフとキルギス出身で今はイルクーツクに住んでいるブラッド&レイラさん夫婦、それにモスクワからやってきたジーマ&イーラさん夫婦と彼らの娘のオーリャ。どちらの夫婦も我々と同じくらいの年齢層だ。彼らは英語ができたので久しぶりにロシアの人たちと話しが弾む。
 ロシアで英語をしゃべれる人は珍しいのだが、仕事を尋くとブラッドとジーマは会社の仕事仲間、レイラさんは医者、イーラさんは学校の先生。今回は休暇を利用しバイカル湖にキャンプしにやって来たそうだ。色々話しているうちに意気投合し、彼らとオリホン島で一緒にキャンプすることになった。
 島へ渡る頃はもう真っ暗。ブラッドの車について、ヘッドライトの明かりを頼りに島を50kmほど北上し適当な湖畔でテントを張る。酒を飲み過ぎてで酔っぱらったロシア人の仲間たちはテントを張って食事を済ませたらすぐに眠ってしまった。

【みどり日記】

 みどり号エンスト

タンクとシートを外してトラブルシューティング 朝、駐車場から宿までバイクを移動している途中、突然エンジンが止まってしまった。いろいろ調べたところ、プラグにカーボンの小さな固まりが付着してブリッジしていたようだ。ロシアは有鉛ガソリンなので、このようになりやすいらしい。
 ジェベルは何とも整備性が悪い。タンクまで外さなければプラグ交換もできなかった。
 弘行から、バイクが動かなくなった場合の対処法を教わった。空気(エアクリーナー)、ガソリン(ヒューエルコック)、火花(プラグ)、電気系統(ヒューズ、配線)の4つを確認していくという。旅をしながら実地で教わっていくので、メカに弱い私にもわかりやすい。

  

  

  2003年7月20日〜22日 イルクーツク〜オリホン島 15km+0km+326km TOTAL 8,076km
 屋外手術

ロシア人グループとの食事 朝ざわめいていると思ったら、ジーマが体じゅう血だらけで足まで引きずっているではないか!
 聞くと、夜酔っぱらって湖岸の方へ散歩に行ったとき、足を滑らせて崖から転落してしまったらしい。着いたのが夜だったので気が付かなかったが、湖岸が3メートルくらいの崖になっていたのだ。

 島には設備の整った病院がないのでその場で治療することになった。レイラは耳鼻咽喉科の医者で、縫合手術くらい朝飯前。手術前にみんな「回復を祈って乾杯!」と言いながらウォッカをあおる。元気付けと言って怪我人のジーマまで飲みはじめる。
 やがて手術が開始され、近くの村で借りてきた手術器具をウオッカとライターの火で消毒し、切り株に座らせたジーマを縫合手術してしまった。縫ったのは額や頭頂部など三カ所くらいを合計6針くらい。まるで衣服を縫うような気軽さだった。
 手術が終わった後、仲間がキャンプしている場所へ移動するという。てっきり町に帰るものだと思っていたのだが、レジャーは怪我人を連れたまま続行するらしい。
 しかしまぁ、それにしてもロシア人っていうのは逞しい人々である。日本なら救急車を呼んだり、病院ではCTスキャンだのレントゲンだので大騒ぎになりそうな大けがなのだが...。

オームリの唐揚げ 車二台バイク二台連なり、湖岸を16kmほど北上して岸が崖になっていない場所へ移動。ここは松林にテントが張れるし、すぐそこの波打ち際は白い砂浜でいい感じ。
 ロシア人の仲間たちはバイカル湖で獲れた魚オームリでスープを作ってくれた。前の日記でも書いたがオームリは白身の淡水魚。身がちょっと淡白だが、なかなかいける。今回三日間のキャンプでは、この魚をウハというスープにしたほか、唐揚げや塩漬けの半生状態でもふるまわれ、いづれもおいしく食べることができた。

      

【みどり日記】

 逞しいロシア人

 今日はまず、屋外オペ(手術)を見て驚いた。こんなところで本当にやるの?と思って見ていたら本当にやってしまった。35歳の女性医師レイラも大したものだ。私も持っていた抗生物質の軟膏と飲み薬、湿布薬などを提供した。
バイカル湖と夕焼け 手術前の元気付けのウォッカは、けが人ジーマの気持ちや痛みを和らげる意味もあったらしい。とにかくウォッカは何にでも役に立つお酒だ。レイラ達は、消毒や麻酔、そして薬にもなるいい物だからと言って、お酒を飲まない私たちにも持っていくことを薦めていた。
 手術の間、ジーマは悲鳴一つあげなかった。傷口に麻酔薬を吹き付けていたせいもあるだろうが、それにしてもロシア人は強いなあと思うのだった。こんな屈強なロシア人に戦争をふっかけるなんて、日本も大胆なことをしたものだ。今のヤワな日本人ではとても対抗できない。
 移動した先のキャンプ地は浜辺だったが、村からは遠い。私たちは持参してきた食料と水が少なかったので心配していると、イーラはこう言った。「ノープロブレム。食料は私たちがたくさん持ってきたわよ。それに水はバイカル湖にたくさんあるから大丈夫よ!」
 ロシア人のタフさ、逞しさを見せつけられたようなキャンプだった。

 のんびりとした島での一日。

オームリ(魚)の下ごしらえ イーラ達にボートに乗らないかと誘われたが断った。だって水温3度の湖面に落ちたら心臓麻痺になりそうだもの。その代わりに、レイラと一緒に散歩に出かけることにした。
 レイラとブラッドはお互い再婚のようだ。レイラには16歳になる男の子がいるらしい。ブラッドとの間に子供はまだいないので、たくさん欲しいと言っていた。今、彼女は新しいクリニックをオープンさせるために、ビルを建てているそうだ。話を聞いていると、子供を抱えながら医者になる勉強をしていたようで、なかなかの苦労人かもしれない。
 頭が痛くなるほど冷たいバイカル湖の水を汲んで、私たちは料理をしたり、顔や食器を洗ったりした。そんなひとときに、とても幸せを感じるのだった。

 

  2003年6月23日〜26日 イルクーツク〜クラスノヤルスク 走行 232km+402km+449km+0km TOTAL 9,159km
  ロシア人の素顔

ブラッド&レイラさんの家にお邪魔した レイラが家に泊まっていってというので、お言葉に甘えついて行くことにした。現在の住まいはアパートだが、今はアンガラ川のほとりに診療所を建設中。
 この四日間、彼らには本当によくしてもらった。キャンプ中の食事をはじめ、家に泊めてもらったときの駐車場代まで出してもらい、お世話になりっぱなし。

 みんなに見送られてイルクーツクの町を去る。イーラは目を潤ませ、ジーマは親指を立てた。そしてブラッドとレイラは車で20kmも先まで見送ってくれた。

 イルクーツクからクラスノヤルスクまでは二泊三日の行程だ。途中一泊のブッシュキャンプ、一泊のホテル泊してクラスノヤルスクへ。
 クラスノヤルスクの手前で道に迷っているとVT250に乗ったロシア人が現れた。ロシアでは町中で道に迷って停まっていると必ずと言っていいほど車やバイクが停まってくれて道案内してくれる。
 そして、市の中心部への道を訊くと親切にもホテルまで先導してくれることになった。その場所が町の中心部から15kmも離れていたにも関わらずである。彼からはチェーンやタイヤが手に入るバイク屋の場所を教えてもらったり。
 一件目のホテルは満室だったが、二度目に探し当てたホテルに無事チェックイン。ホテル前でVT250のロシア人ライダーと立ち話していたら、GL1500に乗っているというロシア人や国際線の貨物機パイロットをしているという人も登場、旅の話やバイクの話で二時間近くも立ち話。暗くなってきたのでバイクを駐車場に持って行こうとしたらGL1500のオーナーが車で先導してくれて、更に駐車場代まで払ってくれた。

バイカルの鷹、セルゲイさん 彼らロシア人と接していると、日本で得ていた情報の中での「ロシア人」の印象とはまるで違う。
 いつかテレビで見た核ミサイルを誇示する政治家、原発事故で汚染された国土に、酒浸りの失業者、マフィア同士の血まみれの抗争、チェチェンを木っ端みじんに爆撃するロシア兵、あれはいったい何だったんだ。それらは確かにロシアの一面かもしれないが、すべてではなかった。今回、寒いシベリアの大地に暖かい人々がたくさん住んでいることを知っただけでもロシアにやってきた意味があるように思う。

【みどり日記】

 予定を狂わす素敵な出会い

 オリホン島はバイカル湖にモンゴルがあるという感じの景色だ。美しいところだが、道はダートで砂深いところもある。こんな時、やっぱりオフロードバイクで良かったなぁと思う。そうでなければ、彼らと一緒にキャンプ地までついていくこともできなかっただろう。オフロードバイクは出会いのチャンスも広げてくれた。
 島を出た後は、ランチタイム。てっきり食堂へでも行くものと思ってついていったら、道なき道を突き進んでバイカル湖畔のビーチへとたどり着いた。そこにシートを敷いて食事となる。ざく切りした生のタマネギとキュウリ、オームリ、それとパンだけなのだが、とてもご馳走に思えた。
 彼らと出会い、一緒にバカンスを過ごし、いろんな体験を共有させてもらったのは本当にラッキーなことだった。今回は英語で意志疎通を図ることができ、いろいろな価値観などについても話をすることができた。バイカル湖やイルクーツクでこんなにゆっくりするはずではなかったのだが、予定が狂うような出会いほどいいものはない。まあ、この間に私たちよりも一ヶ月遅れで出発していたライダーにも追い越されてしまったようだが。

 イルクーツクでのお別れ

20km先まで見送ってくれたブラッド&レイラさん お世話になったみんなとお別れを言うときが一番つらい。
 「また遊びにおいでね。今度は大きな家の方に。」とレイラが言った。どこの家でも、「また帰っておいでね。」と言われ、とてもうれしい。また来る機会って本当にあるのだろうか?
 
 クラスノヤルスクまでの道のり

 レイラ達は、イルクーツク以降の道の注意事項を教えてくれた。ТулунからТайшет辺りは道もダートが多く何もないところだと言われた。それからКанскからАчинск辺りは昔、罪人が流されていた土地なので気を付けるようにと言われた。タイガが続き、住む人も少なく、いたとしても悪い人が多いということだ。
 ダートと言われていた区間は思ったよりも長かった。数キロ〜30キロくらいまでの長さのダートが何度となく現れた。トータルするとダートは100キロくらいはあるかもしれない。
 罪人が流されていたという区間は、特に治安の悪さは感じなかった。

 23日はお花畑でのキャンプだったが、24日は小さな村の安宿に泊まった。確かに安いけれど臭くてうす汚い感じ。キャンプの方がましなくらいだった。管理人は別棟だし宿泊客は誰もいない。こんな所、一人だったら本当に嫌だなぁ。よく喧嘩もするけれど、こんな時はやっぱり弘行と一緒で良かったとつくづく思うのだった。
 
 クラスノヤルスク

 クラスノヤルスクは思ったほどホテルも高くなく、雰囲気がいい街だ。バイクを置いておいても変な人はあまり寄ってこない。やって来たのはいい人ばかりだった。親切な人々にたくさん会い、私たちは気をよくして連泊することにした。
 街を歩きながら売っている商品などを観察すると、今までよりも文明的になってきたような気がする。プリクラもある。ロシアの街もやっと都会っぽい雰囲気になってきた。ただ、インターネットカフェを探し回ったが、結局空振りに終わってしまった。
 天気が良くないと、シベリアはもう秋のようだ。少し肌寒い。まだ7月なのに。

  

  2003年6月27日〜30日 クラスノヤルスク〜ノボシビルスク〜カザフ国境  490km+423km+156km+414km TOTAL 10,642km
 ロシアのバイク屋とサーシャさん

バイク屋のの部長さんがホテルを案内してくれた ノボシビルクスへ着いて、まずはチェーンを交換するため、まっすぐバイク屋へ向かった。シベリアを極東から走って初めてのバイク屋がここノボシビルスクにあると訊いていたのだ。
 ちょうど町中でホンダCBRに乗ったライダーがいたので手を振って停まってもらい、バイク屋まで先導してもらうことに。
 行き着いた先のバイク屋にはサーシャさんという日本語堪能な人がいた。彼は東京モーターショーなどの取材で日本へも行ったことがあるといい、ロシアのバイク雑誌にも日本のバイク事情についての記事を書いたりしていた。
 「ロシアで日本語の通じるバイク屋に巡り会えるとはラッキー!」
 さっそくチェーンについて訊いてみると、RKのO-リングチェーンがリールで在庫してあった。サイズも普通の520はもちろんDR650に使う525サイズもある。
「今日は遅いので明日やってもらうことにしようか」
 店の人にホテルの場所を訊いたら親切にも部長さんがバイクで先導してくれた。しかし、ホテルを何件か回ってくれたのが、どのホテルもほとんど満室。一軒部屋が空いていたホテルは一泊90ドルとバカみたいに高い。
 何だかんだとすったもんだしていたら結局、バイク屋の従業員用アパートに泊めてもらえることになった。若いメカニックたちと一緒の部屋だが、一晩泊まれるだけありがたい。

  大胆なチェーン交換作業

 お世話になったアパートを出てバイク屋へ。今回自分は専用工具を持っていなかったのでチェーンの交換作業を依頼した。しかし、ちゃんとしたチェーン専用のかしめツールを使うものだと思っていたら、ハンマーでいきなり叩きだしたのには閉口した。
 「これがロシアンスタイルなんだぜ!」
 というが、コンマ何ミリの精度で精密に加工されているチェーンを無造作にガンガン叩かれたらたまったものではない。それに、新しいチェーンを接続するとき、ジョイントリンクにグリスも塗らず、軍手の繊維がまとわりついたO-リングを入れようとしていたので慌ててストップをかける。
 で、自分の持っているグリスを塗り、O-リングのゴミもきれいに取り除いてやった。ヤレヤレ(^^; 工賃US$25も払って自分が手伝わざるを得なくなるとは...。やはり自分のバイクは自分で整備すべきということかな。次回は日本からチェーンツールを取り寄せて自分で交換しよう。

地平線の彼方まで続くひまわり畑

【みどり日記】

 ミスコース

 夕方、道路標識を見落とした私たちは道に迷ってしまった。迂回路の標識どおりにいくと何故か川渡りをするはめに。結構流れの速い川だったのではじめは躊躇したけれど、車も何台か渡っていたので行くことにした。怖々やっとの思いで渡ったのにその道はミステイク。余計な川渡りを二度もする羽目になった。でも、転ばずに渡れて良かった。考えてみれば、誰も川渡りがあったなんて言ってなかったよね。モンゴルで慣れっ子になった私たちは、疑問すらいだいてなかったのだから、おかしなものだ。迷って50キロも余計に走ってしまった。

 信号無視

 ノボシビルスクの手前の検問で、信号無視のためポリスに捕まってしまった。というか、検問の手前の信号に気づかずポリスのいる方へわざわざ向かって進んでいったのだが、そちらが赤だったらしい。
 初めは何を言われているのかさえわかってなかった。信号機を指しながら 「赤は止まれという意味だよ。それはわかるね。」と言われ、「しまった、やってしまった。」とあせった。素直に謝りながらも、ダメもとで下手な言い訳をしてみる。そのポリスは、笑いながらも見逃してくれた。フー。気を付けなくちゃ、注意力散漫だ。

 薬屋
 
 オリホン島で怪我をしたジーマに抗生物質の軟膏をあげてしまったので、代わりになる薬を買いに行った。
 薬屋でロシア語辞典を片手に、「傷」、「細菌」という文字を見せた。お店の人はある軟膏を手に取りながら「化膿」という言葉を引いて見せたので、その薬を買うことにした。約70円という安さには驚いた。さて、この薬で大丈夫なのだろうか。ちゃんと意味は通じたのかしら?

 色々もらう(サクランボ、キューリ、果物、野菜、チョコレート)

ロシアの人々にはいつもお世話になりっぱなし ロシアの滞在も残り一日となったある日、その日はいろいろと人から物をいただく日だった。
 まず、昼食をとったシャシリク屋(串焼き屋)の主人が、キュウリ2本とパンをサービスしてくれた。そして、お客として来ていたご婦人からは、サクランボを一カゴいただいた。
 国境手前の町で家族連れに道を尋ねたときは、親切にも車で案内してくれた上、お花、果物、野菜、チョコレートと抱えきれないほどの物をくださった。余るほどのプレゼントと奥さんのキスに見送られた私たちは、もうぐっときてしまった。ロシアの人々は本当に親切だった。ロシア最後の日に、それをまたしみじみと感じていた。
  

 


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