ロシア (4)

スコボロジーノ〜ウランウデ 


まだまだ建設中のシベリア横断道路

  2003年6月13日〜15日 スコボロジーノ〜チタ 走行 327+388+337km TOTAL 3,756km

恐れていた泥沼地獄のはじまり 道幅いっぱいの水たまり

 ダート1,230km

シベリア横断道路沿線の村 スコボロジーノからチタまでは実に三日がかりの行程だった。道は本格的に悪く、あまりの悪路に何度も転倒しそうになる。しかし二人とも重いバイクで悪路を走ることにも慣れ、間一髪で立て直すことが度々。

幾度となく水たまりや小川を渡る 道はほとんど未舗装路。工事がほとんど終わり、あとは舗装するだけといった立派なハイウェイと、工事真っ最中で重機が轟音をあげて作業している道、それに既存の狭いボコボコ道が交互に現れた。特に走りにくいところは工事中の新道脇についている作業道で、本線はブルトーザーやダンプカーが作業しているため、脇の細い作業道(このページ一番上の写真にあるような道)を走ることになる。これが数十キロ、時には100キロ以上続くものだから大変。

鉄道駅周辺の村で水や食料は手に入る 途中、宿泊できるようなところは無かったが、鉄道沿いに小さな町があって、ガソリンや食料が手に入るのが幸いだ。
 泊まりは全てブッシュキャンプ。しかし乾燥しているところはまだしも、途中湿地帯を通るのでキャンプ地を探すのも結構苦労した。普通、キャンプするときは道から外れ藪の中を道無き道を進んで行くのだが、湿地帯に入ってゆくとズッポリはまって出られなくなりそうだ。治安も悪いので人に見つかる場所でキャンプすると大変危険。

 酔っぱらいとチンピラ

 このあたりの村はあまり治安が良くないと聞いていたので注意していたのだが、やはり村のチンピラにバイクのキーを抜かれそうになったり、酔っぱらいに絡まれたりした。ロシアは酒乱の人が多いようで、夕方頃になると暴れん坊の酔っぱらいが大量発生するので気をつけなくてはならない。ブッシュキャンプするにしても買い出しはあまり遅くない時間に済ませておき、夕方になったら酒場に近づかない方が無難かも。

貯木場の陰でブッシュキャンプ どっちが前を走る?

 旅を始めてから数日は自分が前を走り、みどりがその後に続く形で走っていた。しかし、道が悪くなるとどうしても後ろを走っているみどりが遅れ気味になり、車間がどんどん離れてしまう。常にバックミラーを見ながら走っている自分も後ろばかりに気を取られ、肝心の進行方向への注意力が散漫になって何度かヒヤッとする場面があった。そこで、みどりを先頭に走ることにしたのだが、これがなかなか調子いい。みどりはマイペースで走れるし、悪路で転倒してもすぐに助けられるようになった。
 それに未舗装路では、後続の人が前を走るバイクの砂煙を浴び、視界が悪い状態で走ることになるのだが、みどりが先頭なら砂煙を浴びさせなくて済むので安心。しかし、かといって後続の自分が常に砂煙を浴びて走っているのかというとそうではなく、巧く斜め直後を走っているのであまり砂煙を浴びずに済むのである。
「ところで、走っているときの意思疎通はどうしようか?」
「停まってほしいときはヘッドライトを消灯することにしない?」
 こうしてヘッドライトを消灯したら安全な場所で停まるというルールが決まった。あとはなんとなく「Uターンするぞ」とか、「追い抜け」など、走りながら意思疎通するサインも出来上がってくる。
 「今までの旅では独りで走っていたけど、二人旅というものも楽しいね。」

 1,230kmぶりに舗装路を走る

 チタの手前130kmほどのところで、道は突然舗装路に変わった。三日ぶりの舗装道路、振動のない道が実にありがたい。

ロシア製サイドカーに乗った少年 ロシア製のジープ

 ロシア人の家庭に泊めてもらう

 夕方になってチタの町に到着。人口30万人以上の大きな町に泊まるのはハバロフスク以来だ。
 「一週間ぶりにシャワーが浴びられるぞ!」
 町に入りホテルを探しているとき、いつものように親切なロシア人の車が停まってくれて安いホテルまで案内してもらうことに...。車に乗っていたのは二人組の男と女性が一人。一見チンピラ風で警戒したのだが、安いホテルの場所まで来てそこが満室だとわかったとき「家に来ないか?」というありがたい提案をいただいた。断る理由もないのでお言葉に甘える。案内された先が郊外の一軒家で、この日から三日間に渡り暖かいもてなしを受けることになった。シベリアの悪路を越えてきたところで、一般のロシア人の生活ぶりに直に触れるチャンスに恵まれるとはこれまた幸運な!

【みどり日記】

 青空カフェ

青空カフェ スコボロジーノからはどんな道だろうかとわくわくドキドキしていたら、結構はじめのうちはフラットな高速ダート。”シベリア横断道路開通”とでも書かれているのかと思わせるような青い看板を見て、やっぱり道が出来たんだとぬか喜びをした。
 新しい道なので、沿道に村もなければカフェもない。でも、そこに目をつける人はいるものだ。写真のおじさんは、道ばたで青空カフェを開いていた。手作りのイスとテーブルを置いてコーヒーを振る舞う。何か食べるかと言って、古タイヤの中に敷いた布からピロシキを出してきた。これもおじさんの手作りなのかな。ゆで卵とご飯を混ぜたものが具のピロシキだった。

カフェのおじさんの家 辺りを見回すと、おじさんが住んでいると思われる粗末な小屋?を見つけた。白樺の細木を三角に組み合わせて、ビニールをかぶせただけの本当に簡単なものだった。究極のシンプルライフを見せられた思いだ。

 発破工事

 よく整備されたダートがこのまま続くものと安心していたら、とんでもなかった。そのうち、道路工事真っ最中の区間が何度も現れるようになった。道は迂回路続きで、泥ヌタあり、大きな砂利道あり、砂あり、アップダウンあり、コルゲーションあり。振動でバイクも壊れそう! 現にキャリアのねじがはずれていた。水たまりもあちこちに出来ていた。この3日間は晴れていたから良かったけれど、これで雨でも降ったら走り切れただろうか。まだ工事が終わってない区間は迂回路で繋げて繋げて、やっとチタまで何とか繋がったよという感じ。これで、開通と言ってしまうところが何ともロシア的だ。

発破工事の現場 大音響が響く 大きなダンプカーが道をふさぐように止まっている。行っていいかと聞くとダメだという。こんなところで検問でもないだろう。それとも、嫌がらせ? などと考えていると、オヤジが大声で説明を始めた。さっぱり分からない。ただ、山を指さして、両手を大きく振り上げてみせる。もしかして発破か?この先で発破工事があるから待ってろと言うことか。で、いつまで待てばいいの? 
 遠くの方の工事の話だと思って呑気にしていたら、もう一台ダンプがやってきて私たちの前に止まった。そして、こっちへ来いというように弘行を引っ張る。何だ何だ?「隠れろっていうことか?」 弘行の言葉に、私もあわててダンプカーの陰に隠れた。その直後、前方の道がピカッと光って、地響きと共に大音響。さっき指していた山の方を見ると大きな黒煙が立ち上っていた。滅多にない現場に遭遇して、しばし驚きと興奮でボーゼンとしてしまった。訳の分かっていない日本人を避難させるのに、工事のおじさん達も困っていたのだろうなぁ。 

凄まじいアップダウンが続く 陸送屋の儲けは?

 この工事区間は本当に今までにも増して何にもない。既存の道を使うような大きな迂回路になると、村の方へと繋がっているので売店なども見つかるが、新道に戻るとまるで地の果てか異次元の世界だ。ブルドーザーやダンプカーがロボット怪獣のように感じる。その中を走る陸送軍団には、同志のような親しみさえ感じてくる。

 陸送軍団とは、日本の中古車を富山や新潟から船に乗せてロシアに運んできて、そのまま陸送してモスクワなどへ運ぶ人たち。何台かで組んで走っている場合もある。四駆車ばかりではなく、カローラなどのような普通の乗用車もこの道を走っている。売る前にボロボロになってしまうんじゃないかと、見ているこちらの方が心配になってくる。彼らはいつ寝ているのか。睡眠時間も3時間くらいで、ひたすら走り続ける。二人の場合は、交替で休みなく走り続けるようだ。こんなにしてまで走るんだから、どのくらい儲かるのだろうか。ある人に聞いてみたところ、11,200$で買って、2,900$が関税、2,000$がガソリン代、そして売るのは20,000$だという。ということは儲けは約4,000$か。1週間程の陸送で4,000$の儲けならば結構いい商売なのかもしれない。ただ、こんな悪路を走った中古車が200万円以上で売れるのだろうか?
 この中古車、結構盗難車もあると聞く。ナンバーのかわりにカスタムの書類をガラスに貼り付けて走る車もあったけれど、そういうのはちゃんと正規に輸入した車なのかな。

 荒野のキャンプ

 カフェや売店がないのだから、もちろんホテルなどありはしない。それどころかキャンプに適した場所さえ見つからない。湿地帯に土を盛って作っている新しい道なので、横道さえあまり見かけない。あったかと思えば、工事車両の通り道だったりする。それこそ本当に今日は泊まるところがないかもしれない、と真剣に思った。夜通し走るのは危ないから、道ばたで寝ないで夜明かししなければならないのだろうか? 太陽と競争するように走る。暗くなる前に何とかしなければ。キャンプ地探しに100キロ走行など、もう驚かない。走らなければあたりには何もないのだから。

 それでも暗くなる前にはいつもどこか良い場所が見つかるものだ。
 キャンプのための水、食糧の補給は、売店があるうちにやらなければ本当に欲しいときに何もなかったりする。この次やろうなどといって後回しにして失敗することが度々あった。「大事なことから先にやる。」というのは、荒野を走って得た教訓だ。次の機会なんていつ来るか分からない。途中でできない状況に陥るかもしれない。
荒野に限らず、ロシアではそういうことを何度も考えさせられた。パソコンが繋がっているうちに一番大事なメールから送ろう、洗濯が出来るうちに済ませておこう、シャワーが使えるうちに浴びておこう、などなど。
 そういえば、ハバロフスクを出て以来シャワーも浴びていない。「1週間以上シャワーを浴びなかったのは初めてだ。そう考えると、南米はいかに旅行が楽だったかということだね。宿に困ったことは全くなかったよ。」と弘行も言う。やっぱりここは地の果てか? さすが極東といわれるシベリアだ。

 

  2003年6月16日〜17日 チタ(連泊) 走行 0km TOTAL 3,756km

おばあちゃんと息子のパーシャ、孫のバーニャ

 この三日間、ロシア人の家庭でのんびり過ごした。詳細はみどりの日記で書いてもらうが、みんなからは実に暖かくもてなしを頂いた。ロシア語もよくわからない僕たちを理解し、まるで家族同然に扱ってくれたのだ。どこの馬の骨かわからない外国人を泊めてくれる懐の広さに感激。この親切は生涯忘れられないだろう。

 

湖のそばで羊の串焼きシャシュリックを食べる サウナ小屋

【みどり日記】

 チタについて、パーシャとボーバに声をかけられたときは、正直いって疑っていた。パーシャが家においでといったときも、初めは警戒していた。でも、彼には小さい子供もいるという。子供がいるような家ならば大丈夫だと思い、怖々ついていくことに。そこで3泊もお世話になるとは。

 実はここはパーシャの家ではなく、彼のお母さんの家だった。入院しているけれど、もうすぐ戻ってくるらしい。その間、パーシャ達が家を守っていたようだ。パーシャの奥さんのスビエタ、2歳の坊やはイワンという。イワンはバイクが大変気に入ったようで、離れない。ついでにシートの上でおしっこをされたのには参った。
 それから、翌日病院から戻ってきたパーシャのお母さんはリューバという。それこそ、息子が勝手に連れてきたどこの馬の骨ともしれない旅行者を、彼女は大変歓迎してくれた。

 私たちは、チタまでの悪路の後なので、ここでほっと一息つけさせてもらって、大変助かったのだった。ホテルに泊まっていたら、バイクの洗車や整備も出来なかっただろうし、ライディングウエアまで洗濯をして干すような場所もなかっただろう。
 台所に水道がないような家庭だったので、洗車や洗濯なんて無理かとあきらめていたら、庭の水やり用のホースを貸してくれた。お礼に水やりのお手伝いなどをした。

 ここの暮らしは質素だけれど、無駄遣いに慣れた私たちには新鮮だった。
食器は洗面器にためた水につけて、スポンジで洗うだけ。すすぎもそのままの水。油っぽい食器には、お湯をかける。特別な場合でなければ洗剤も使わない。
台所の流しは、シンクの下にバケツが置いてあるだけ。貯まったらトイレに捨てに行かなければならない。水道はなく、シンクの上にある貯水ケースの下に、蛇口がついている。ひねると出るような蛇口ではない。下から上にプッシュすると、その分だけ水がしみ出てくる仕組みだ。これなら無駄に流すこともない。朝食の卵料理には、庭にある野菜が使われている。飲料用のドラム缶の水は、必ず熱を加えて使っていた。
 お風呂には感動した。ロシア風の蒸し風呂だったから。薪で沸かしたお湯に、葉っぱのついた枝をつけて、それで体を洗うそうだ。やってみるとなかなか気持ちがいい。蒸し風呂なのでバスタブもシャワーもなかったけれど、洗い場は別にあって、バケツに水が汲んで置いてあった。最低限の水でお風呂も済ませた。
 おばあちゃん(リューバ)がパンを焼くのも少し手伝った。鍋に水、牛乳、砂糖、塩、バター、イーストなどを適当に入れて、ちょっと撹拌しただけ。そこに小麦粉をふるいながら入れてよくこねる。そして、別の小さな鍋にお湯を入れて、そのうえに置いてねかす。いとも簡単に作ってしまう。夕方にはおいしいパンを食べることが出来た。

 パーシャと友人のボーバは、チタの街や湖などへも連れて行ってくれた。湖はビーチのような賑わい。水着のお姉さんがくつろいでいたり、この冷たい水で泳ぐ人もいる。その楽しい雰囲気を味わいながら、途中で買ったシャシリク(羊の串焼き)やら、薫製の魚やらを、ネギやラディッシュといった野菜と共に食べる。むしゃむしゃと生野菜をむしって食べるのは、何とも豪快だ。そしておいしい。

 みんな全く英語も話せないので、知っているロシア語と、辞書を使っての会話。このときばかりは、もっとロシア語を勉強しておけば良かったと思った。
チタでの日々は、のんびりと時間が流れていくようだった。

 

  2003年6月18日 チタ〜ブッシュキャンプ 走行 373km TOTAL 4,129km
 出会いがあれば別れも訪れる。たった三日間の滞在だったが、おばあちゃんの家にはかなり長い間住んでいたような錯覚を感じた。別れ際、パーシャが幹線道まで送ってくれた。バックミラーの中で小さくなってゆくパーシャを見て目に涙がにじむ。頭の中ではみんながこっちに向かっていつまでも手を振っていた。ずっとずっと.....。 うれしさと悲しさの入り交じった妙な気分に浸りつつ、次の目的地ウランウデまで単調な舗装道路をひたすら走る。

【みどり日記】

 パーシャをはじめとするラグーチン一家とのお別れは、まさにウルルン滞在記のようだ。彼らは、「これからイルクーツク、ノボシビルスク、と走っていってモスクワに着いたら、またノボシビルスク、イルクーツク、チタと戻っておいで。そして、またこの家に泊まりにおいで。」と言う。こんなせりふを実際に聞いたら、ウルウルしてしまうものだ。
 おばあさんは、これを持って行きなと言って、昨日焼いたパンや野菜、ジュースなどを持ちきれないほど用意してくれた。こんなにお世話になったのに、そこまでしてくれるなんて。お礼として、日本の絵葉書と折り紙くらいしか渡せない自分達。本当にありがたい気持ちと申し訳ない気持ちで一杯になった。

 チタでリフレッシュした私たちは、身も心も優しい気持ちになって旅を再開した。
山火事の後らしく、道中は霧のように辺りが煙っていた。焼けこげた木々。
舗装になったけれど、相変わらず何もない道が今日も続く。

 

  2003年6月19日〜21日 ブッシュキャンプ〜ウランウデ(連泊) 走行 286km TOTAL 4,415km
 ウランウデでモンゴルビザ取得

 ウランウデでは次に入国するモンゴルのビザを取得。ここで宿泊していたブリヤティアホテルのすぐ近くにモンゴル領事館があるのだが、直接そこへ行ってもビザはもらえず、ツアーエージェントで取得するように言われる。
 結局、ホテルバイカル二階のツアーエージェント、ブリヤートインツアーで申請。
料金はビザ申請手数料US$63、ツアーエージェントの手数料100ルーブル(400円)、バイクの通関費用が先払いで50ルーブル(200円)。申請したのが金曜日だったので、翌週まで待たなければならないと思ったが、昼前に申請したら夕方には発行してもらうことができた。

 スカイケンジさんに再会

 ここで出発前から海外ツーリング情報掲示板で情報交換していたスカイケンジさんに再会。彼とは出発前にもキャンプで会ったことがあり、同じ時期にロシアを横断することは知っていた。掲示板で連絡を取り合っていたのだが、ここウランウデで会えるとは幸運。

 彼は僕たちの一週間後に同じ船でロシア入りを果たし、シベリア横断道路の工事区間は列車に乗せて走ってきた。バイクがBMWのR1150GSという重量級のマシンなので列車を使ったのは賢明。しかし、やはり列車に乗せるまでが大変だったらしく、半日も列車を待ったり、その間にヘルメットを盗まれそうになったりしたそうだ。道を行くにしても列車を使うにしてもシベリア横断は大変なことにはかわりなさそう。
 明日22日はスカイケンジさん共に三人でモンゴルを目指すことにした。

【みどり日記】

 ウランウデに近づくほど、人の顔はアジア的になっていった。そして景色も草原地帯が増えてきた。
 昼食をとった村では、なんとロシア人からお金をもらってしまった。100ルーブル紙幣を差し出しながら、「これは私からあなた達への助けです。」と言って渡そうとする。400円くらいの額だが、日本で言えば1000円札を差し出したような感覚だ。
 はじめは断っていたけれど、有り難くその好意をいただくことにした。お礼に日本の絵葉書や切手などを渡した。
 「ロシア人は悪い人ばかり。」とは誰が言ったのだろう。今まで会った人はみんないい人達ばかりだった。そりゃいろんな人がいるだろうし、気をつけなければいけないだろう。でも、普通のロシア人はみな温かい人ばかりだった。

 ウランウデの街を歩いていたら、なぜか「ニーハオ」と声をかけられた。今までも、よく中国人かと聞かれた。こんなところにいる日本人はあまりいないからか、それとも私の顔が本当に中国人ぽいのか。弘行は日本人に見えるけれど、私は中国人に見えると言われたときはショックだった。
 「ヤ ヤポーンカ!(私は日本人です!)」と大声で叫ぶ。

 メールの送受信は、ここウランウデで実に13日ぶりにできた。でもインターネットの環境は非常に悪い。そのうえ待たされることも多く、メールを送るのにも一苦労。

 スカイケンジさんとの再会は、とてもうれしい。日本人旅行者に久しぶりに会って、話が尽きない。みんなそれぞれいい旅をしているようだ。さて、スカイケンジさんと同じ日に出発したクリスと横江さんは今どこにいるのやら。


みどりの食卓

パオズ(肉まん) この辺りではアジア的なメニューを見かけるようになった。

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