キルギスタン (1)

ビシケク〜イシククル湖〜アルティンアラシャン


岩山を越え温泉地”アルティンアラシャン”を目指す

  2003年8月7日 アルマティ〜ビシケック 走行 265km TOTAL 12,207km

 国境越え

ビシュケクの映画館前で見たポスター ビザの有効期限切れが翌日に迫った日、カザフを逃げるように出国した。カザフにはもうちょっと滞在したかったのだが、僕たちが持っているツーリストビザは特例を除いて延長できないらしい。試しにOVIRと呼ばれるビザに関する業務を扱うセクションへ行っても、混みあっているだけでまるで相手にしてくれなかった。外国人を厳しく管理し、なるべく入国させない慣例が残る旧ソビエト連邦の国は、こういった面でも融通が利かないのだ。結局この国には3万6千円ものビザ代を払って8日間しか滞在しなかったことになる。

 アルマトゥイからビシケクまでは、左手に山脈を見ながら山の連なりと平行に平原の中を走る。山の向こうはもうキルギスタン領だ。低い峠を越えてしばらく行くと、勢いよく流れる川を挟んでカザフ〜キルギスの国境が開いていた。カザフ側ゲートには車の列が並んでいたが、バイク旅行者は優先的にゲートを通してくれる。窓口ではパスポートとバイクの国際登録証を渡した。ビザの欄に出国スタンプを押され、バイクの色などの質問を受け、ビデオカメラで顔写真を撮影され終了。橋を渡って川をまたぐとそこはもうキルギス領。キルギスはなんとフリーパスだった。中央アジアで唯一ビザなし入国できるこの国は国境も無いようなもの。入国スタンプどころか、バイクの通関手続きも不要とは。
 ビシケクの町は安いホテルが多いのがありがたい。あまりにも雰囲気が悪そうなので遠慮した宿もあったが、何軒か回って見たうちの中級クラスに宿泊。

 【みどり日記】

 平原から山岳地帯へ

 平原の麦畑を過ぎ、一山越えてやってきたキルギスは山国だった。遠くには雪をかぶった山々が見える。今までの地平線ばかりの世界とは一変した。山が多いため水も豊富なようだ。芝にふんだんに散水する公園や、流しっぱなしに使う家などを見ているともったいないように思う。今までいたロシアやカザフスタンは平原なので水が少なく、人々は大切に使っていたからだ。
  国境を越えるとわずか20キロほどで首都ビシュケクに着く。この国の舗装道路の悪さには驚いた。ガタガタ穴ぼこだらけ。首都へ向かうメインの道でさえこうなのだ。
  キルギスのお金はCOM(ソム)といい、1$=42.50COM前後。町にはレート表示の看板を出した両替商が連なっている。通りによってレートが少し違うので、見比べてみた方がよい。地方へ行くとレートは悪くなり、1$=40COMにまで落ちるところもある。

 

  2003年8月8日〜14日 ビシケック(7連泊) 走行 2km TOTAL 12,208km
 サブルさんの家

宿泊者全員揃って中庭で夕食 ビシケクにはバックパッカーがよく集まる民宿「サブルさんの家」があると聞いていたのでそこへ移動することに。場所がよくわからなかったので、前日インターネットカフェで情報を得ておいた。
 そこは大使館街の中なので治安がよく、町の中心部からも近くて便利。宿を切り盛りするサブルさんの姪グナーラはとても親切に世話をしてくれる。朝食と夕食がついて一人一泊US$8〜と安いのもポイントが高い。そしてバイク旅行者にとって何よりもありがたいのはバイクが敷地内に置けるということ。庭には鶏やひよこが歩き回り、犬、猫ものんびり暮らしていた。

 ここには日本人もよく宿泊しているようで、日本語の情報ノートが置いてあったのだが、見るとやはりみんな隣国のビザ取りに苦労しているようだった。
 この問題はもはや他人事ではない。ビザの関係で隣国への出国が不可能になったとき、バックパッカーは飛行機で飛んでしまうという手があるが、バイクで移動している我々は陸路に頼らざるを得ないのだ。
「ビザの取得に失敗するとホント袋のネズミになってしまうよ。」

 ビザ取りに奔走

 ビシケクでは隣国ウズベキスタンのビザ取りに動いたのだが、ひたすら忍耐の日々が続いた。
 まず、ウズベキスタン領事館へ行ったのだが、ビザ申請の営業時間が午前10時から午後1時までの三時間しかなかった。来る人が多いので、朝8時頃から並ばないと中へも入れないうちに時間切れになってしまうのだ。しかもここの受付をしているオババが曲者で、話すのはロシア語のみ、英語はまるで通じない。
 初日はなんとか受付まで到達できたのだが、不自由なロシア語を駆使して必死でビザをお願いするものの、「通訳を連れてこい」と門前払い。ビザ申請くらいの簡単な会話で何故通訳が必要だというのか。
 二日目は同じようにビザを取得に来た日本人旅行者が先に並んでいて、彼は早朝から5時間くらい並んだあげく、やっと中に入れたと思いきや申込用紙一枚だけくれて追い出されてしまった。その日はそこでタイムアップ。仕方ないのでその人から用紙をコピーさせてもらい翌日出直すことにした。守衛の人によると、電話予約すればすぐに対応してくれるというので、番号を教えてもらいみどりが電話予約する。
 そして三日目、 前日に予約を入れているのですぐに手続きできると思いきや、ウェイティングリストに載っていないと言われ、再び列の最後尾に並ばされた。わずか三時間しかないので、この日もタイムアウト。
 これでは何もしないまま一週間が経ってしまう。みどりがもう大爆発で門番に抗議すると今日の三時にまた来いとのこと。昼食を食べて出直し、再び一時間ほど並んで中へ入る。窓口にはやはり先日のオババがいて、「通訳を連れて来い、申請の受付時間は終わったからまた明日来い。」と言った。言うとおりにしていると何も進まないので、パスポートと申込書、写真を窓口にねじり込み、無理矢理受理してもらう。すると中からオヤジが出てきてやっと話を聞いてくれたが、ビザの受け取りは9日も後の22日10時ということになった。

 結局、ビザ申請だけで一週間も時間が経ってしまったが、その間の滞在中たくさんの旅行者と知り合う事ができたので良しとしよう。

みんな揃ってお見送り

 【みどり日記】

 ビザ取りに奮闘

 今後のルートによるとウズベキスタン、トルクメニスタン、イランのビザが必要になってくる。トルクメニスタンは大統領独裁国家で、ここではあまり情報が入らない。 ビザ取りもインビテーション(招待状)が必要になるため隣国ウズベキスタンへ行ってからの方がよいようだ。イランは女性のビザ取りが難しいと、情報ノートに書かれていた。こちらもウズベクへ行ってから取ることにした。イランビザの申請写真は女性の場合スカーフで頭を覆った方がよいとのこと。グナーラに借りて写真だけ撮っておいた。
 ウズベキスタンビザは隣国なので取らないわけにいかない。インビテーションも必要ないので旅行社に頼らず自分たちで取ろうとしたが、こんなに翻弄されることになろうとは。
 初日の金曜日は簡単に追い返されてしまった。翌日から土、日、月と3日間も大使館はお休み。焦る気持ちで再トライした火曜日は、予約者に先を越され時間切れとなり、
まさに門前払い。明日こそはと電話予約をしてみたが、電話に出たのはまたしてもロシア語しか喋らないおばちゃまだった。とにかく「ビザ」、「明日」、「永原弘行、みどり」と必要項目だけ連呼して電話を切った。
 そして水曜日。案の定リストにはないと言われてしまった。おかげで今日もタイムアウト。弘行が言うには、この辺りの国々の大使館員は、旅行会社やビザマフィアからマージンをもらうため、直接やって来た人にはなかなかビザを出さないのではないかとのこと。本当かどうかわからないが、私はもう、頭に来た!守衛に「あんたの言うとおり電話したのに、リストにないとは何よ!」と文句を言った。守衛はニタニタしながら「また明日来い。」と言う。短気な私はもうすっかりキレた。ロシア語と英語と日本語をごちゃまぜにしてわめき散らした。
 「いい加減にしてよ。もう三度目なのよ。どういうことなのか日本大使館に聞いてやる!」
我ながら、子供の喧嘩じゃないんだから「お母さんに言いつけてやる!」的な言い方はないでしょと思った。でも、日本大使館という言葉が利いたのか、私のヒステリーに怖れをなしたのか、「今日の3時にまた来い。」との返事がもらえた。
 実際、予約したのにリストにないと言われて途方に暮れる外国人や、日本大使館に口添えしてもらってやっとビザを取得できたという人達を何人も見た。正攻法が通じない国は、ゴネてみるくらいしないと振り回されてばかりだ。。

 レジストレーションで迷走

 旧ソ連国でビザに次いで面倒くさいのがレジストレーション(外国人登録)。大きなホテルでは代理でやってくれるが、安宿に泊まっている私たちは自分でオビールに出向かなければならない。
 私たちが行ったときはちょうどお昼休みだった。時間をつぶして再度出向くと、ロシア語でまくし立てられて地図を書いて渡された。ここではなかったようだ。その地図が何ともわかりづらい。人に聞くと、ホテルに行けということではないかという。ホテルに行くと、「ここではできないのでこの場所へ行きなさい。」と先ほどの地図を指す。タクシーに見せればわかると言われたので乗ったが、たどり着いたのは初めに行ったオビールだった。「ここじゃないよ〜。ここでこの地図書いてもらったんだから〜。」
 よくよく地図を見た運転手は、別の場所へ向かってくれた。何とオビールの支店があったのだ。迷走した分のタクシー代はちゃんと請求されてしまったが、やっとたどり着けてよかった。時間ぎりぎりだったが手続きをしてもらうことができた。
 後で知った情報によると登録料は指定の銀行で払うそうだが、私たちは直接オビールで支払いができた。レジストレーション代は一人50ソム。5日以内の滞在ならばレジストレーションは必要ない。
 
 中国談議

 サブル家では中国経由でキルギスに来た旅人や、中国に留学している学生等と知り合い、中国の話で盛り上がった。これから国際的になって変わって行くであろう中国は、今一番興味深く楽しみな国であるそうだ。
 毛沢東と蒋介石の違いすらすっかり忘れていた私は、彼らに会って大変勉強になった。 歴史的なこと、政治的なこと、地域や民族の話しなど。学生時代、社会科は単なる暗記の授業だった。覚えたことは答案用紙に流し込んだままどこかへ消えてしまった。旅をしながら聞くと、歴史や地理の一つ一つがいきいきと意味を持って存在しているのを感じる。
 夏休みを使って旅をしている社会科と英語の先生に会った。今思うともう一度勉強し直したい教科だ。この先生達は、きっと学校でも旅の経験を交えて興味深い授業をしていることだろう。学校の先生には是非旅をしてほしいと思う。生き生きとした現実と結びつくような授業をして、生徒たちの想像力をかき立ててほしい。

 文化パッカー
 
文化パッカーのみんなと乾杯! サブル家で会ったある3人のバッグパッカーは、自分たちのことを「文化パッカー」と呼んでいた。彼らは訪れた土地で映画を見たり、流行している歌を覚えて歌ったり、言葉を学んだりという旅をしている。たぶん私たちの旅の仕方とは少し違うと思った。中国で覚えたという歌を、ギターで弾き語りしてくれた。こんなにいい歌が中国にもあったのかと感動した。
 将来的には外国に住むことを考えているそうで、夢を抱きながらも現実的な視点で外国を観察しているようだった。
 彼らを見ていると、ただ通りすぎるようにバイクで走っているだけでいいのかしらと考えてしまう。旅は人それぞれだけれど、今の自分を振り返ってみると、考え込んでしまうのだった。

 

  2003年8月15日 ビシケック〜コムソモル 走行 292km TOTAL 12,500km
 イシククル湖

メロンが安くて旨い! ビザ待ちの間キルギス国内を見て回ることにした。目的地はビシケクから東へ300kmほど行ったところのイシククル湖。そして更に200kmほど行って山間部をちょっと入ったところの温泉地、それに標高3000メートルの高地にあるソンコル湖だ。
 イシククルは山岳湖としては、南米のチチカカ湖に続いて世界で二番目の大きさを誇っている。事前に聞いた情報によると、景色の良さでは南岸、泳ぐなら北岸が良いらしい。今回はせっかくなので湖を一周することにした一周すると約500kmのコースである。

 民宿(クバルティーラ)

 イシククル湖の北岸、特にチョロポンアタの町の前後にはクバルティーラと呼ばれる民宿が並んでいて、一泊US$2〜US$6程度で泊まることができる。一般の民家を湖水浴客に開放しているといった感じで、ホームステイの気分が味わえるのが良いところ。道路にサインが出ているので見つけるのも簡単だ。
 今回は静かな場所で過ごしたかったため、人でごった返している中心地を避け、小さな町の民宿をあたることにした。

 小さな民族紛争

 「この人達ははうちのお客さんよ!」
 「いいや、うちに来てくれたのよ!」

 キルギス人ミーラさんの民宿に入っていきなり近所のロシア人のおばさんが出てきて、我々客の取り合いが始まった。言い争いは次第にエスカレートして、おばさん同士つかみ合いひっかき合いの大喧嘩に発展してしまった。
 僕たちが驚いて出ようとすると、喧嘩が一段落。ロシア人のおばさんがなにやら捨てぜりふを吐いて出て行き、キルギス人のおばさんも罵詈雑言を浴びせる。

 中央アジアの国々は、ソ連時代ひとつの国だったこともあり、以前からかなりの人の移動があったようだ。そのため、各国独立後の今も同じ国や地域に複数の人種が混在して住んでいる例が多いらしい。
 ここコムソモルの村も例外じゃなかった。民宿の周りも、隣の家はロシア人、向かい側の家はカザフ人というように複数の民族が隣りあっていた。
 日本では田舎へ行くと地元民と県外から移ってきた人の間に差別的感情が出ることがよくあり、日本の地方都市を点々と移り住んでいた自分はよくよそ者扱いされたことがある。特に○○県では排他的な気風が充満し地元の人との間に壁を感じることが多かった。
 同一民族の日本でさえそうなのだから、異民族の隣人となればその軋轢は更に大きいはず。やはり隣人同士、あの「ロシア人は...」「あのカザフ人は...」と妬みや恨みが尽きないらしい。
 関係ない僕たちにまで「あの△△人はがめついから気を付けろ」とか「あの××人は嘘つきだから言うことを聞くな」など言ってくるものだから気持ちよくない。

 【みどり日記】

 スイカ売り

道端の露店でスイカの試食 ビシュケクからイシククル湖へ向かう道路沿いでは、山のように積んだスイカやメロンを売る人たちがいた。26歳のローザさんもその一人。4人の子供がいるという彼女はお父さんが作ったスイカなどを一人で売っていた。
 ローザさんは「試食していきな。」と言ってスイカやメロンを私たちに切ってくれた。そのおいしいこと。思わず二人でスイカ1玉、メロン1玉を平らげてしまった。「試食だからお金はいいよ。」と言うローザさんにやっとこさお金を渡してきた。
 値段を聞いたところ、スイカは1キロ当たり2ソム(約6円)、メロン1キロ当たり4ソム(約12円)とのこと。日本では考えられないほど安い。スイカなんて8キロくらいの大玉が50円くらいで買えてしまうのだ。

 

  2003年8月16日 コムソモル 走行 0km TOTAL 12,500km
 湖水浴

イシククル湖で湖水浴 先月訪れたバイカル湖は水温が約3度という氷水のような低温で、膝下だけでも5秒と浸かっていられないほど冷たかった。しかし、イシククルの北岸は夏の北海道の海水浴場と同じくらいの水温で、慣れれば何十分でも泳いでいられるほど暖かい。水平線の向こう側に氷河や万年雪を抱いた山が連なって見えるのが信じがたいほど。
 この日は雲ひとつとない快晴の青空が広がり、体がよく日に焼けた。風が少し冷たいので、暖かい日差しとちょうどバランスして気持ち良い。しかし、この気持ちよさの代償に翌日からは背中の痛みに悩まされることになった。夜寝ていても寝返りをうつ度に目が覚めるほど日焼け痕が痛い。毎年これで痛い目にあっているのに懲りないんだなぁ。

 【みどり日記】

 ミーラさんの庭

民宿の女主人ミーラさん(右) 民宿の女主人ミーラさんは、息子二人と暮らしていた。ご主人は亡くなってしまったそうだが、長男とささやかながら牧畜と農業を営んでいる。庭では鶏が飛び歩き、生まれたばかりの仔牛も遊んでいた。1頭の乳牛は昼間は放牧地へ出かけ、夜になると帰ってくる。
 会話集を見たミーラさんは、「これ便利ね。」と言いながら、自分の庭の説明を始めた。「これがリンゴ、これはカボチャ・・・。」人参、きゃぺつ、タマネギ、キュウリ、トマト、アプリコット、チェリー、桃、洋梨、マリナ(えぞいちご)、ブルーベリーなどなど。聞いていると、本当によくぞこれほどと思うくらいこの庭にはいろいろな物がなっていた。
 ミーラさんは庭のかまどで焼いたパンと、手作りのマリナのジャムを出してくれた。
 鶏は卵を生み、人間の残飯を餌として片づけてくれる。牛からはミルクを絞り、牛糞は干して燃料としていた。とにかく何の無駄もない。ここの生活にはほんと感動してしまった。究極の自給自足だ。
 最終的にあこがれる生活を、何てことはない日常のこととして目の前に見せられて、ただただ感心するばかりだった

 コムソモルの夜は真っ暗なので、天の川まではっきり見える。月だけでなく、星までもがイシククル湖に映って見えたのには驚いた。それだけ星が大きいのか、湖がきれいなのか。ロマンチックな夜だった。

 

  2003年8月17日 コムソモル〜カラコル 走行 167km TOTAL 12,667km
 アルマトゥイへ続く道

鷹匠が鷹を手に乗せてくれた 朝、民宿を出るとき、今までのミーラさんの親切が一気にさめる出来事が起きた。そういえば隣のロシア人のおばさんが、「あいつはがめついから気を付けろ」とか言ってたっけ。あれは単なる悪口じゃなくて本当の事だったらしい。ミーラさんの、絵に描いたようなしたたかさに憤りを通り越して笑ってしまう。

 もう二度と来たくはないが、「ではまた来ますね〜、ダスビダーニャ!」と言って出発。本日の目的地は湖の東端に位置するカラコルの町。周辺の山を歩くトレッカーのゲートタウンである。
 イシククル湖北岸にはそれに平行して標高4000メートルくらいの山脈が連なっていた。アルマトゥイから西、ビシケクへ向かうときに南側に見えていたのと同じ山脈を今は北に眺めて走っているわけだ。
スノーレパードの剥製 この山を越えるとその先はカザフスタンである。チョロポンアタの先から山に入る道があり、未舗装の山道が続いていた。寄り道して入って行くと、その渓谷美からちょっとした観光地になっているようで、道中には乗馬や乗ロバの客引き、鷹を客の腕に乗せてお金をもらう商売人がいる。切り立った谷沿いには狭い土地にホテルや食堂もあった。
 後で聞いた話によるとよると、この先の道を進むと峠があり、そのままカザフスタンの国境を越えられるとのこと。しかし、峠に税関やイミグレがないので越えてしまうと不法出入国する事になってしまう。試しに峠へ向かって山道を登って行くが、途中からかなり道が荒れてきたので前進を諦めて引き返した。

 バレンチンさん

バレンチンさんと手作りの四輪バギー カラコルでは中央アジアで初めてのバックパッカースタイルホテルである「ヤクツアーホステル」に泊まる。ここはバックパッカー向けの宿なので一泊二食付きでUS$8という安さ。しかもホットシャワーにサウナ付きで、敷地内にバイクが置ける。周辺の山にトレッキングへ行くときは余分な荷物を預かってもくれるというとってもヘルプフルで居心地の良い宿だ。
 ここヤクツアーホステルのオーナーバレンチンさんはソ連時代のモトクロストレーナーで、かなりの機械好きだ。ガレージの中を嬉しそうに見せてくれたのだが、そこには四輪のバイクが眠っていた。よく見たらそのマシン、水平対向エンジンが載っている。
「ボクサーツインの四輪バギーなんて始めて見た!」
 それもそのはず、このマシンは彼の手作りだった。彼はイシククル湖畔の観光地でホンダの四輪バギーに乗って以来それが気に入ってしまい、ロシア製バイク「ウラル」を改造して一ヶ月で完成させたという。足周りの部品は四輪用を流用し、デフギヤまでついていた。しかもこのエンジン、ノーマルではオクタン価80のガソリンを使うことになっているのだが、圧縮比を上げハイオク仕様に改造、パワーアップを果たしている。
 「いやぁ、それにしてもキルギスの片田舎にすごい人が住んでいるものだね。」

 【みどり日記】

 キルギス人のしたたかさ

 ミーラさんの宿は居心地が良かったので名残惜しいけど、今日は出発することにしようか。と思っていたら、隣のおばさんがまくし立てるように声をかけてきた。驚いたことにビシュケクのサブルさんの親戚だという。サブルさんに親戚が民宿をしているからと教えてもらってはいたが、まさか隣の家だったとは?確か住所はもっと別の所じゃなかったっけ?
 そのおばさんは、「あんた達が泊まる宿はそっちじゃなくて、うちだったんだよ!」とまくしたてる。そのうち、ミーラさんと言い争いを始めてしまった。またまた喧嘩だ。確か初日は別の隣人と喧嘩してたよね。ミーラさんが去ると、そのおばさんは私にミーラさんの悪口を言い始めた。身振り手振りでもよくわかる。「あいつはがめつい奴だから。」とでも言っているようだった。ミーラさんも後で「あいつは頭が変だから言うことを聞かなくていいよ。」などと私たちに言う。
 こんな喧嘩を見ていたら、昨日までのいい気持ちが一気に冷めてしまった。こんな所はさっさと退散しよう。さっそくミーラさんに精算をお願いした。さてっと、お会計・・・。ミーラさんはやっぱりがめつかった。
 もともと一人一泊素泊まり100ソム(約300円)と言われていた。それなのに請求は二泊二人合計で1000ソムにもなっていた。明細によると、バイクの駐車代一台につき一日50ソム。民宿の庭に停めて駐車代も取るなんて聞いたことないよ。それにビシュケクの駐車場でも20ソム程度なのに高すぎる。それから卵やミルクなど食事させていただいた分は払おうと思っていたが、お茶代まで請求してくるのにはビックリ。更に一番驚いたのは最後にプラスされていた100ソム。「これは何?」と聞くと、「ほら庭を案内したでしょ。リンゴとかカボチャとかってね。」庭の案内料まで請求してくるなんてまったく呆れてしまった。その上合計額を100ソム単位に切り上げていた。
 会計担当の私としては、それをそのままお支払いするわけにはいかない。案内料はカット、そのほかも少し削って850ソムを提示した。これでも甘い方だ。ミーラさんは、「あたしゃ旦那もいないんだから、少しくらいいいだろ。」などと言って抵抗していた。900ソムにしろと言い張っていたが、結局850ソムで決着が着いた。
 話が着いた後はもうニコニコとしたものだ。それにしても、あんなにがめつく取った上に「写真を送ってくれ。」と言って住所まで書いてよこすのだからすごい。キルギス人はしたたかだとかずーずーしいという話を聞いていたが、確かにそうだと思った。

 

  2003年8月18日、19日 カラコル〜アルティンアラシャン〜カラコル 走行 37km+30km TOTAL 12,734km
 山道18km

ガレ場の登りが続く 「きゃぁ〜」(ドテッ!)
 「あぁ、また転けた!」

 アルティンアラシャンの温泉へ行く道は未舗装の山道だと聞いていた。オフロードバイクなら楽勝だとタカをくくっていたものの、道があまりにも悪く悪戦苦闘。最初はイチゴ大だった路上の石が次第にリンゴ大、メロン大と大きくなり、最後はスイカ大の岩がゴロゴロするガレ場となった。今年の春に起きたという雪崩跡では、瓦礫で道が埋もれている。
 こうなったらもうバイクを押すしかない。大半の荷物は前日泊まった宿に預けてきたものの、キャンプ道具や飲料水を積んだバイクはずっしりと重かった。

 道は谷間をうねうねと登る。道のすぐ脇には上の氷河から流れてきた川が轟々と流れていた。氷水のように冷たい上、水量が多いので落ちたら一巻の終わりだ。
 温泉まであと少しのところ、急坂の峠越えでみどりが立て続けに転倒。250ccのパワーでは坂を上りきれず、途中で止まってしまうのだ。それでも諦めず、後ろから押しつつやっと登りきった頃はもう体中汗だくでヘトヘト。その場に座り込んで水をガブガブ飲む。
 そこから更に峠の頂まで上がると、はるか下の方に温泉宿と思われる山小屋が見えた。
 「あれがアルティンアラシャンだ!」
 ホッとして汗がスーッとひいてゆくのがわかった。

道のすぐ脇は氷水の流れる渓流だ

 【みどり日記】

 アルティンアラシャンの温泉

峠の頂に立つと遙か下に温泉宿が見えた 3〜4回ほど転んでやっとの思いで温泉にたどり着いた。アルミボックスをカラコルの宿に預けてきてよかった。
 「オフローダー、走った後は、おフローだー!」と弘行がぶつぶつ言いながら、喜んで温泉に入っていった。
 鍵付きで湯船もあるので久しぶりにゆっくりと入れるかと思いきや、「1回30分」と言われてしまった。混んでいるわけじゃないのにケチ!と思っていたらそうではなかった。この温泉はラドン温泉でわずかの放射性物質を含むという。効能が強く心臓に悪いため、入浴時間は30分以内にした方がよいのだそうだ。それでもここはまだ薄めてあるからいいけれど、その辺に湧き出ているお湯で足湯をしたときは、10分以内にした方がよいと言われた。
日焼けがヒリヒリして絶叫する 水を足してあるため、湯船の温度はちょうどよい。湖水浴で日焼けした肌には、ヒリヒリと痛かった。入浴料は1回50ソム。石鹸類は使用禁止。


 ベラルーシのシニアトレッカー

ベラルーシからやってきたトレッカーたち アルティンアラシャンでは温泉宿には泊まらず、テントを張ることにした。ベラルーシのミンスクから来ていた2組の夫婦がいたので、彼らの隣に張らせてもらう。60歳前後の彼らは、ビックリするくらいお元気だった。男性25キロ、女性15キロのザックを背負って9日間も山の中を歩いてやってきたそうだ。私たちが来たルートとは逆の方からで、ロープも必要になるほどの登山道を歩いてきたらしい。それなのに、ビデオカメラまで持参していたのには驚いた。
 彼らには何かとお世話になった。水場やトイレの案内、温泉についての説明など、いろいろなことを教えてくれた。
 セルゲイが「いいところがあるからおいで。」と言って誘ってくれた。言われるままついていくと、川の端っこに温泉の水たまりがあった。「ここは無料だよ。」と言ってニコッと笑う。二人で足湯をした。ここは薄めていないそのままの温泉なので10分以内でやめておいた。
内湯がある小屋 彼らに教えてもらった水場は、橋を渡ったたもとにあった。その橋が今にも崩れそうで怖い。牛、馬も通るので丸太がグラグラとしている。現に牛が前足を踏み外して橋の上でしゃがみ込んでしまっていた。その牛は糞を漏らすほどたいそうビビっていたようだ。その橋を、水をいっぱい入れたバケツを持って歩くのはちょっと怖かったが、彼らが手助けをしてくれた。
 このとても気のいいおじさま、おばさまと出会えたことは、アルティンアラシャンを一層いい思い出にしてくれた。私たちの片言のロシア語とボディランゲージでも結構意志疎通を図れたのがうれしい。刻々と移り変わる周りの風景の変化を一緒に楽しむことができた。
 一足先に出発した彼らがいなくなると急に寂しく感じられ、私たちも後を追うように山を下りた。
 

 

 


みどりの食卓

【左】イシククル湖のルイバ(魚)
   ワカサギを少し大きくしたかんじの白身魚。
【右】ショルポ
   ダシ取り用の牛肉と、大きなジャガイモや人参が入っているスープ。

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