トルコ (3)

2003年10月22日〜11月4日 エーリディル〜イスタンブール

   
向こう岸はヨーロッパ(ボスポラス海峡)

 2003年10月22日〜25日 エーリディル〜パムッカレ 0km+317km+0km+0km TOTAL 21,652km
 漁師の宿

ペンションの屋上からエーリディルの半島を望む エーリディル湖の南に半島が突き出している場所があり、ちょっとした観光名所になっていた。昨日は半島の付け根にさしかかったところで、漁師でペンションのオーナーと名乗る人に声をかけられる。彼のペンションでは湖からとってきたばかりの新鮮な魚が食べられるとのこと。食いしん坊の僕たちはそんな売り文句に釣られ宿泊まりに決定。「今日はブッシュキャンプで節約しよう」 なんて言ってたのだれだっけ? でもまあ、25,000,000リラを20,000,000リラ(約1,700円)にまけてもらったので良しとしよう。
 後でわかったのだが、この半島にはホテルやペンションが数十軒も営業している。トルコ全体に言えるのだが、観光地近辺の宿泊施設が過剰気味で、どこの宿も客の獲得に躍起になっている。そのため物価の割に宿の宿泊料金は安めで、値切り交渉にも簡単に応じてくれる。バスの停留所付近では宿の客引きがしのぎを削っている状態。自分で宿を探さなくても客引きが連れていってくれるので簡単だ。 
 宿の夕食はブラックバスのフリッターに焼きめし、スープとサラダ、最後はケーキとコーヒーがでてきた。しかしこれが宿泊料金と同じ値段。トルコを旅していると宿代よりも二人分一食の食事代のほうが高い事が多い。

 オランダからやってきた自転車旅行者

自転車でやってきたルイスとスーザン この宿ではカップルのオランダ人自転車旅行者、ルイスとスーザンに会う。
 ルイスは難民受け入れ施設でオランダ語の講師を、スーザンは小学校で先生をしているそうで、二人とも一年間の休暇を取ってユーラシア大陸の旅に出発した。自転車で旅するくらいだから若いのだろうと思いきや二人とも自分よりもずっと年上だ。

 彼らも当初は自走して大陸を横断しようとしていたのだが、ユーラシア大陸は東西に長すぎるため自転車だと一夏では横断できないことに気が付いた。そのため予定を調整、カッパドキアまで自転車で走った後、イスタンブールまでバスで移動し、そこからタイのバンコクに飛びインドシナ〜北京まで自転車で走るとのこと。ヨーロッパ人の自由気ままな旅感覚にはいつも驚かされるが、40歳すぎても自転車で大陸の旅に出るとは、なんて格好いいんだろう。

 バス、ロブスターを食べる

バスのフリッター  民宿の夕食にも出てきたブラックバス。日本ではゲームフィッシングの対象、または害魚とされているバスだが、ここでは漁師が網ですくってきて市場やレストランに出荷している。食べてみると歯ごたえも弱く、味に深みがない感じ。今回はあっさり味の唐揚げで出てきたが、もっと濃い味付けにしたほうがおいしく食べられるような気がした。
 翌日は近くのレストランでもう一度バスを食べてみたのだが、やはり民宿のバスと同じ味。ボリュームが少ないので満腹にならず、懲りずに別のレストランで淡水産のロブスターにもトライ。注文するやいなやウェイターがタモ網を取り出し、生け簀からロブスターをすくってきた。
淡水ロブスター ここの淡水ロブスターは小振りでザリガニのような形。茹でただけのロブスターはちょっと泥臭く、昔メキシコ・バハカリフォルニアの海岸で食べた巨大ロブスターのイメージとはかけ離れた感じだ。ガーリックバターでグリルにするともっとおいしいかも。

 ヒエラポリスとパムッカレ温泉

透き通った水の流れる渓谷 エーリディルからは、途中水がきれいな渓谷のある国立公園へ寄ってパムッカレへ。
 パムッカレは観光案内のパンフレットで見るような景色とはほど遠く、石灰棚のプールひとつひとつが10〜20センチの深さしかなくて泳げるような深さじゃない。温泉とは言ってもお湯がぬるいので、だまって浸かっていると風邪ひきそう。
 しかし、ヒエラポリスの遺跡はみものだった。すばらしい彫刻の掘られた石が無造作にごろごろ転がり、山の斜面に張り付く劇場の遺跡も壮観だ。


【みどり日記】

 旅行者のたらい回し

 エーリディルは湖沿いのリゾート地で、赤瓦に赤煉瓦の家々が建ち並ぶ。南国の沖縄を思い起こさせた。旅行者にとってはマイナーな場所だけれど、私たちのように客引きされて来たと思われる外国人ツーリストが、このFULYAペンションには何人も泊まっていた。みな、ここの素晴らしい景色とペンションの心地よさに思わず長居しているようだった。
 パムッカレへ行く途中、ペンションで薦められた渓谷へ寄っていくと、同じ宿のフランス人夫妻もきていた。彼らを乗せてきたタクシーの運転手は、何とFULYAペンションのオーナーの従兄弟だという。これから私たちが行く予定のパムッカレのペンションも、FULYAペンションの親戚。やっと獲得したお客は逃さないように次々と回して、親戚同士助け合っているようだ。その連係プレーはお見事。

 トルコ男は日本女性がお好き

ヒエラポリス パムッカレのペンションに着くと、片言の日本語で嬉しそうに話しかけてくる青年がいた。ここの奥さんの弟で、実家は羊飼いをしながらカーペットを作っているという。彼は日本人の女性と近々結婚するらしい。彼女のお腹にはもう子供がいるとか。なんだかトルコではこういう話をよく耳にする。たいていが旅行者の日本人女性とトルコ人のカーペット屋さん、トルコ石屋さんという類のカップルだ。トルコ人男性は、日本人の女性が好きなのかしら。
 途中で会った一人旅の日本女性も、よく男性に誘われると言っていた。先ほどのカップル達はまじめなつきあいをしていたけれど、みんなそうとは限らない。こういうカップルの離婚も多いと聞く。
 お土産屋のオヤジなど、馴れ馴れしく触ってくる人も多い。ダンナが隣にいてもまるでお構いなしだ。

彫刻のある石が無造作に転がる 夜、ライトアップされたパムッカレを見に一人で出かけた。帰り際、通りかかった床屋を珍しそうに覗いていると、店のオヤジさんに手招きされた。マッサージをしてくれるという。いきなりなので不安に思いながらも、マッサージ大好き人間の私は思わずその言葉につられてやってもらうことにした。頭、背中、腕、ああ気持ちいい。
 そのうち、マッサージの機械を使うので奥の部屋に行こうと言われた。クリームを塗るので、Tシャツも脱げという。さすがにそれは抵抗があった。「もう私は40歳もとうに過ぎているので、そんな変な気はないから大丈夫だよ。」とオヤジさんは言う。そう言われてもねぇ。結局少したくし上げる程度にして、あとはTシャツの上からにした。
もう夜遅いのでお客や店員もいない。ここには旅行者もよく来るというので悪くないのかもしれないけれど、こんな状況ではどうもリラックスできなかった。腕や足の付け根など触られるとちょっと嫌らしく思えてしまう。こそばゆいこともあって、適当なところで終わりにしてもらった。通常2,000,000トルコリラのところを、1,500,000トルコリラ(約150円)に負けてくれた。
 このオヤジさんも日本人が好きなようで、「明日は家で食事をご馳走してあげるから、旦那さんも連れて是非またおいで。」と言ってくれた。弘行に話すと面倒くさそうだったので結局やめてしまったけれど、ちょっともったいなかったという気もしないではない。

 パムッカレ温泉

石灰棚に溜まっていた温泉は浅くてぬるかった。 パムッカレは春の雪山といったかんじで、白い石灰岩の下に土が見えているところも多く思ったほど綺麗ではなかった。石灰棚を傷つけるといけないので、料金ゲートの先は靴を脱がなければならない。せっかく用意してきたのにサンダルも禁止。歩くと足が痛い。登り切った先に立派な施設があり、そこの温泉プールに入ると10年長生きできるそうだ。でも、一人15,000,000トルコリラ(約1,500円)と高いので、入るのは諦めた。二人分の宿代と同じ値段なんだもの。
 パムッカレのポスターにあるような美しい場所をやっと見つけた。よく水着の女性などが写っていそうな所。歩くコースの中にそれらしき場所は見つからなかった。ああ、ここなのね、と思いしばらく遊んでいると、遠くで笛を鳴らす音が。私たちは入ってはいけない場所へ入り込んでしまったようだ。美しいパムッカレを保存するために、けっこう入場禁止の場所が多い。ポスターで見るような泳げそうな所など、どこにもなかった。うそつき! 今日は温泉で泳げるぞ、と水着持参で楽しみにやってきた自分たちがかわいそうに思えた。

 

  2003年10月26日〜30日 パムッカレ〜セルチュク〜チャナッカレ 195km+0km+300km+165km+0km TOTAL 22,312km
 キリムを買う

出荷場のボスとキリムの値段交渉をする パムッカレ近辺の村は絨毯やキリムの産地になっているらしい。ちょうど泊まっている宿の従業員一家が絨毯を作っていることを知って、彼の村を見学させてもらうことになった。ここの絨毯やキリムは工場で生産しているのではなく家族単位のマニュファクチャーで作られている。なので、100%天然素材・100%手作りだ。おじいさんが羊を放牧し、あんちゃんが毛を刈り、母さんが毛を紡いで、娘が織っているといった感じ。
 この村へはイスタンブールの絨毯屋が何十枚単位で買い付けにやってくるそうで、畳大の大きさのキリムで卸価格2〜3万円とのこと。本当は一般の人はここで買うことはできないのだが、特別に出荷場に案内してもらい、キリムを一枚売ってもらうことができた。買ったのはラクダとヤギと羊の毛で手織りしたハイブリッドなキリム。これは完成するのに一日二時間・週七日織って二〜三ヶ月かかるそうだ。日本で作れば人件費だけで十万円くらいかかりそうだが、僅か2万円ほどで購入。同じ物をイスタンブールで買えば4〜5万円かかるというから良い買い物をした。

 エフェスの遺跡

これがエフェスの遺跡一番の見もの トルコでビールの銘柄にもなっている「エフェス」の遺跡を見学。それにしても遺跡というのは日記に書きにくいものだね。深い考古学的知識と想像力がないと「すばらしい」としか書けないよ。なにも知らないままいきなり来てしまったけどもっと勉強してくればよかった。

 エーゲ海のビーチリゾート

 28日は風の強い日だ。東から強い風が吹いていて北へ向かって走っている我々のバイクは横風で左右に揺れた。一日中横風にあおられながら走り、日が暮れる頃、アルティンルクという町にさしかかる。小さな町だが夏期は保養地として賑わうらしい。
 「アパートペンション」と書かれた看板を見つけて入って行ったそこは長期滞在型のペンションで、部屋にはそのまま生活できるような設備が備え付けてあった。なんと部屋数三部屋、リビングルームにはテレビとソファ、キッチンには調理器具が一式そろっており、大きな冷蔵庫もついている。ベッドルームが二つもあってエーゲ海が見えるバルコニーにはイスとテーブルが備え付けてあった。これは高そうだと思って躊躇していると、シーズンオフということで割引してくれて20,000,000リラ(約US$14)でいいという。一時はあまりの豪華さに退散してしまったが、他にあたったホテルが同じような料金だったため、結局そこへ戻ってくることに...。
 一泊だけ泊まるにはもったいないが、せっかくキッチンがついているということでみどりがスパゲッティを茹で、ツナ缶でトマトベースのソースを作ってくれた。テレビを見ながらソファに座ってくつろいでいると、なんだか新居に引っ越してきた気分。日本に帰ったらこんな優雅な家に住みたいな。

 トロイの遺跡

木馬のレプリカ チャナッカレの町へ入る前にトロイの都市遺跡を訪れる。ここはギリシャ神話で有名なトロイア戦争・トロイの木馬作戦があったところ。1870年にドイツの考古学者シュリーマンによって発見されたこの遺跡、一見してただの石積みに見えるが、伝説上の話だと思われていた都市が実在していたのだから凄い。過去の発掘では9層の都市遺跡が発掘され、一番古い層は5000年以上もの昔に作られたらしい。
 今となっては石垣が残っているだけだが、その石積みの上には建物が建っていた。しかし、「トロイの木馬作戦」で功をなしたギリシャ軍により町は焼き払われてしまい、町は衰退の道をたどってしまう。

 トロイの木馬作戦をざっと説明すると、トロイアと戦っていたギリシア軍が、撤退すると見せかけて神にささげるための木馬を作って置きみやげにした。トロイア軍はその大きな木馬を門を壊して城内に運び込んだのだが、勝利の宴に酔いしれているとき、木馬の中に隠れていた精鋭部隊が外に飛び出し、町に火を放って攻撃。撤退すると見せかけて実は入り江に隠れていたギリシア軍の残党も再出撃。木馬を運び込むときに壊された門から侵入してギリシア軍が勝利をおさめるに至ったのである。

 トロイア戦争で有名な「木馬」は遺跡への入り口近くにレプリカが飾ってあった。ギリシャ伝説や、城内に運び込む時に壊したと思われる門の修復跡などを元に大きさや形を再現したそうで、階段を登って中に入れるようになっていた。馬の胴体部分には人が20人くらい入れるスペースがあり、更に馬の背の部分にも小屋が乗っていて10人くらい入れるようになっている。
 この木馬、ベッドを入れたらそのまま宿泊施設として使えそう。そのうちこんな木馬を十頭くらい並べた「トロイの木馬ペンション」なるものが開業したりして。

 本場のトルコ風呂に入る

翌日は風邪をひいた チャナッカレの町ではトルコに入って初めてのトルキッシュバス、「ハマム」に入る。はじめにサウナで汗を流したあと洗い場で頭からお湯をザバザバかけられる。石鹸まみれにされたあと、鍋つかみの形をした手袋で垢こすり。ロシアや中央アジアでたまった垢が、これでもかこれでもかと、まるでウジが湧くようにたくさん出た。
 これらはすべて垢擦り師がやってくれるので、自分はただじっとしているだけ。次に大理石の台の上にみどりと一緒に並んでマッサージをしてもらう。これがなかなか痛くてくすぐったくてうなり声を上げてしまった。最後は自分でシャワーを浴び終了。30分程度だが全身リフレッシュし体が軽くなった気分。

 30日は一日中雨で停滞

 ハマムで垢を落とした翌日、雨が降って寒かったせいもあり本格的に風邪をひいてしまった。
 そういえば南米を旅しているときに会ったインディへナの人々は生まれて以来、何十年も風呂に入らず全身脂ぎっていたっけ。アンデス5000メートルの寒〜い高原地帯に平気で住んでいられるのも体が垢と脂で包まれているからだと聞いた。
 それに、東京でぽん引きをやっていた知り合いが言ってたっけ。彼はある日近所のホームレスを風呂に入れてやったのだが、そのホームレス氏は風邪を引き、三日後に衰弱死してしまったと....。
 やはり体の垢や脂分はプロテクタの役目を果たしているので、落としきるのはよくないというのは本当かも。

 【みどり日記】

 キリムとカーペット

作成中のキリム キリムとは、トルコ特産の敷物。カーペットのように表面に毛が出るような織り方ではなく、厚さも薄い。床に敷いたり、壁に掛けたりして使われている。いいものは300年も使えるようで、年期のある古いキリムは、新しいものよりも高く売られていた。
 値段は素材によってとても違う。子羊の毛は柔らかいので高級品。大人の羊毛になると格段に安くなるけれど、長年使えるようなキリムにはならないようだ。シルク混は最高級で、艶もあって美しい。私たちが買ったような三種類の毛を織り込んだキリムは、他ではあまり見かけなかった。ベージュ色はラクダ、黒はヤギ、その他の色は子羊の毛を使って織られたそのキリムは、素朴な色合いでなかなかいい味を出していた。

 カーペットにも目を引くいい品があった。それは染色していないそのままの色の子羊の毛を使って織られたカーペットだった。ナチュラルカラーのため、色を揃えるのが大変なのだろう。US$350もしたので買うのを諦めてしまったけれど、日本でこの値段を出しても大したカーペットは手に入らないことを思うと、とても欲しくなった。

 支払いをすると、お店の人はお金を数えてカーペットの上にお札をヒラヒラとまいていた。そして拾い上げるとお札を振るような仕草をした。これは、「いい商売ができますように。」というおまじないだという。その日初めての商売に対して行われるそうだ。

 親切なユリさん

 日本へ荷物を送るための段ボール箱を探していたところ、「MOON LIGHT」という店を紹介された。そのおみやげショップを営むトルコ人女性には、大変お世話になった。彼女は日本人が好きらしく、今までも数多くの旅行者のお世話をしてきている。お金をだまし取られたというある旅行者のためには、大使館にまで掛け合って助けたそうだ。お店に置かれたノートには、お礼のメッセージがぎっしり。彼女はみんなからユリさんという愛称で親しまれていた。
 私たちは、ユリさんから段ボール箱を提供してもらっただけではなく、郵便局まで一緒につきあっていただくことになった。彼女曰く、送る荷物のうちキリムが問題なのだという。カーペット類を送る場合、証明書を請求される可能性があるそうだ。その点、ユリさんは郵便局員とも顔なじみなので、信頼されている。おかげで私たちも荷物を開封されることなくすんなり送ることができた。
 普通のトルコ女性とは違い活発で行動的なユリさんは、お姑さんからは疎まれているそうだ。でも、人情味があってズバズバとものを言う明るい彼女の店には、いつも日本人が遊びにやってきていた。

 ただの石っころ?

 世界遺産のトロイの遺跡へ向かうはずが、初めは間違えて名前のよく似た別の遺跡へ行ってしまった。あまりにも人が少ないので変だなぁとは思っていた。充分遺跡を堪能した後、走り出してしばらくすると「Truva」という遺跡の標識が。いろいろな呼び方があるらしく、こちらが本物のトロイの遺跡だったようだ。そのくらい私たちはこの有名な遺跡について、何も知識がなかった。

 そんな私たちはまず入って、木馬のレプリカにがっかり。「トロイの木馬の本物はどこ?」などと探し始める始末。木片でもあるのかと思っていたけれど、考えてみれば伝説になるほど昔の話。まして都市が焼失したとあれば、木片すら残っているはずもない。がっかりしたレプリカも、貴重な資料を基に再現したと聞くとやっと価値がある物に見えてきた。
 今では偉そうに講釈を述べている弘行も、そのときは何もわからず、遺跡見学はまるでつまらなそうだった。「全部同じ石っころに見えてきた。」などとぶつぶつ言う。確かに特に目を引くような建物が残っているわけでもない。知識や説明がなければ、見栄えのしない遺跡だった。
 ところが出口の売店にあったガイドブックを見たところ、これが相当大変な遺跡だということがわかった。知識欲は広がり、パソコンに入れてきた百科辞典でもさらに調べてみる。するといろいろなことがわかっておもしろくなり、もう一度見学し直したいほどの気持ちになった。

 事前に勉強しようと思ってもなかなか身に付かないけれど、現地へ行って興味を抱いたところで勉強するととてもそれが身に入る。そしてもう一度その場所へ行くというのが一番いいようだ。それは旅全体にも言えると思う。  

 待望のハマム体験

すべての垢が落ちて体重が軽くなった!? マッサージ大好きの私は、トルコでハマムに入ることを一番の楽しみにしていた。そしてチャナッカレの街でいよいよハマム体験。女性の私も男性が行うとあってはじめはとても抵抗を感じたけれど、水着を着て実際にやってもらうと結構いけるもの。混浴なので、弘行と一緒にやってもらえるのもいい。
 女性の私には優しくやってくれたのか、弘行のように痛くは感じなかった。本当に気持ちが良くて、またやってもらいたいと思うほど。一人12,000,000トルコリラ(約1,100円)。

 そして後日、イスタンブールでも再度体験してしまった。このチェンベリ・タシのハマムは昔ながらの伝統あるハマムで、多くの観光客が訪れていた。男女別なので、水着やパンツを付けている人もいるけれど、上はみんなノーブラ。真っ裸もOK。女同士だと気恥ずかしさもなく、胸までしっかり洗ってもらえるのはいい。一人25,000,000トルコリラ(約2,200円)とちょっと高い。
 お風呂上がりのお肌は、見違えるほどツルツル。一度お試しあれ。

 

  2003年10月31日〜11月4日 チャナッカレ〜イスタンブール〜エディルネ 371km+156km+0km+0km+260km TOTAL 23,099km
 東トルキスタンからの亡命者

イスタンブール大学にて イスタンブールに着いたその日の夕食時、やさしい眼差しの奥に、底知れぬ力強さと哀愁の漂う男がテーブルの向かいに座っている。そして彼は東トルキスタンの窮状を熱く語ってくれた。
 「もう二度と故郷に帰ることはできないかもしれない」
そう、彼は東トルキスタンの故郷カシュガルに妻子を残したまま亡命してきたのだ。

 彼とは、みどりがインターネットでこの地域のことを調べているときに知り合ったのだが、メールを出した当時はまだカシュガルでツアーガイドの仕事をしていた。しかし、しばらく後になってトルコへ亡命してきたというメールが来た。それが今回イスタンブールで彼に会うことになった経緯である。

 東トルキスタンは、中国政府のプロパガンダにより「新彊ウイグル自治区」という名前で知られているが、自治区なんていう言葉は嘘で、チベットや内モンゴルと同様、漢民族が在来の民族を弾圧し、搾取し、支配し続けている地域だ。そこは、もともとウイグル人の住む土地だったのだが、旧ソ連や中国など、隣接する大国に翻弄され悲しい歴史をたどってしまうことになった。
 「ひとつの中国」という政策を続ける中国政府は、チベットやモンゴル、そしてウイグルの独自性を認めず、中国に同化させることに躍起だ。そのため、かの地に住む在来の民は、自らのアイデンティティーを意識するだけで罪にされてしまう。現実にウイグルの知識人が次々と逮捕・投獄・虐殺され、それが今なお続いているとうから恐ろしい。そのためインドに亡命しているダライラマやチベット人の例と同様、外国に逃げざるを得なくなってしまったウイグル人が後を絶たないのである。

スルタンアフメットの夜景 彼も同様だった。ウイグル人である彼はカシュガルの旅行会社でガイドの仕事をしていたのだが、中国政府の民族弾圧について話していたことが当局に知られてしまい、命からがらキルギスへ越境、そしてトルコへやってきたのである。残念なことに、こうなってしまった直接の原因が仕事で同行した日本人ガイドによるものだったというから悲しい。平和ボケした日本人にとって秘密警察の存在や民族弾圧の深刻な現実など理解できなかったのだろう。その日本人ガイドは彼から聞いた現実の話を中国人ガイドの前で口を滑らせてしまったのだ。

 今は国連の機関に亡命申請を出している最中。しかし、亡命中の身の人に市内を案内してもらったりしてお世話になりっぱなし。この街滞在中の三日間、毎日会って話を聞かせてもらったのだが、イスタンブールの名所や史跡などどうでもいいと思うほど、彼の話の方が興味深く、そしてショッキングだった。
 約二ヶ月かけて越えてきた中央アジア。カシュガルへは行けなかったが、一過性の旅行者の目には見えないおぞましい事が起きていたとは。東トルキスタンに関してもっと詳しい事を知りたい人は以下のサイトを参照してほしい。

 東トルキスタン情報センター http://www.uyghur.org

 【みどり日記】

 アジア横断終了

 11月1日、イスタンブール到着。ボスポラス海峡を越えた向こう岸には、古いモスクや宮殿がある旧市街と、ビルが建ち並ぶ新市街が見える。これでアジア大陸横断は終了。この海峡に架かる大きな橋を越えると、向こうはもうヨーロッパだ。ロシアに渡ってからちょうど5ヶ月。長かったアジアの旅がよみがえる。
 感慨にゆっくり耽る間もなくあっと言う間に橋を渡り、ヨーロッパ側のイスタンブールの街へ入った。渋滞しているうえに石畳の急坂が多く、走りにくい。イスラム教のモスクや猥雑としたバザールなどを見ると、大陸は別でも中身はまだまだアジアだなぁと感じた。

 アジアの旅の総決算

 今回の旅の準備中、タクラマカン砂漠周辺のシルクロードを走る手段はないものかと調べていたときに、インターネットでAさんと知り合った。結局、中国を走るための手続きの煩雑さと値段の高さで行けなかったけれど、アジア横断を終えたこの地で彼と会えたことに縁を感じた。
 昔、大学の講師や旅行添乗員をしていたことがあるというAさんは、知識も豊富で様々なことをわかりやすく教えてくれた。

 東トルキスタンという名も示すように、トルコ人とウィグル人は似た民族なのだという。私たちが旅をしてきたカザフ、キルギス、ウズベクなどの中央アジアの人々も、トルコ系民族らしい。確かにトルコ人も、元はといえば中央アジアからやってきた民族だった。さらに言語圏で区分すると、私たち日本人も同じ仲間ということになるようだ。
 全く違うのはロシア人と中国人だ。彼らとはなかなかうまくはやっていけないそうだ。

 彼も社会主義の根本的な間違いを指摘していた。文化人や知識人を否定して、労働者(プロレタリア)のみを認めているけれど、はじめに社会主義を説いたカール・マルクス自身がそれに当てはまらないという滑稽なことがおきている。文化文明が発展していかないので、社会主義の国々はいつまでたっても貧しいままなのだという。

 その点、イスラムの教えでは第一に「よく学びなさい」ということが掲げられているそうだ。神が造ったこの世のすべての物についてよく知ろうとしなさい、という教えだという。それにより中世の頃には学問が大変発達し、イスラムの国々も大変栄えていったそうだ。

 中央アジア、イラン、トルコと巡ってきたけれど、同じイスラム教のモスクでも地域によって形が違っていた。それは、その土地土地の価値観や文化の現れなのだという。モスクや教会、寺院というものは、人々にとって大切なものなので、美しいものを造ろうとする。だから、その土地の人々にとって一番美しいと感じる形で造られていくものなのだそうだ。
 食事や習慣なども同じ。この宗教だからこれという固定のものではなく、その土地に古来からある風習に合う形で宗教は取り入れられていく。宗教や思想とはパソコンでいうソフトのようなものだから、途中でがらっと変えていくことは可能なのだという。けれどその土地に根付いた民族独自のものはハード。一番根本となって変えられない大切なものなのだ。

 イスラム教徒の彼自身、とても勉強家なので様々な分野に詳しく、話はおもしろくてつきなかった。彼との出会いは、まるでアジアの旅の総決算のようだった。

グランドバザール

 ラマダン
 
 今年は10月27日からラマダンが始まっていた。ラマダンとはイスラム教の修行の一つで、年に一度(イスラム歴の九月)、一ヶ月間断食を行うというもの。断食といっても昼間だけ。太陽が沈む間は食事もできる。だからラマダン中の夜間はまるでお祭りのようだ。下手な場所でラマダンに遭遇すると、旅行者も昼間の飲食ができなくて大変らしいが、イスタンブールは観光地なので問題なし。かえっておもしろい時期かもしれない。

 私たちはAさんに連れられて、東トルキスタン協会の夕食に招待された。ラマダン中は口開けの夕食会が催されるそうだ。イスラム教には、富める者は貧しい者に施しをしなさいという教えもあるそうで、この夕食会も仲間の中でお金に余裕のある人達のおごりで催されているらしい。
 イスラム教徒でも何でもない私たちも、Aさんの知り合いということで一緒に夕食をご馳走になった。「日本人は、トルコ人やウィグル人とも親戚だよ。」と言ってみなさん歓迎してくださった。
 ここにはAさんのように亡命して逃れてきたウィグルの人もたくさん来ており、会場は独立を望む熱い思いに満ちていた。

 

みどりの食卓

 

左】シシケバブ 羊肉などの串差し。シシとは串という意味で、ケバブは焼き肉のこと。
【右】ムサカ トマト、なす、ジャガイモ、挽肉、ペッパー、タマネギなどが入ったトマトソース系の炒め物。 味は、トマトのすっぱさがでていた。

 


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